本多俊政
本多 俊政/利政 ほんだ としまさ | |||||||||||||||||||||||||||||
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本多 俊政(ほんだ としまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。大和高取城主、高取藩の初代藩主。諱は、利朝(としとも)や正武(まさたけ)などが伝わる。
経歴[編集]
父は岩倉織田氏の織田信安に仕えていた本多利久で、名字は本田、あるいは水野ともいわれる。諱についても利政ともいわれる[1]。
父と共に豊臣秀長に仕え、秀長が大和の国主になった際に高取城主に任命される。秀長とその養子である秀保が死去して大和大納言豊臣家が断絶すると、独立大名として豊臣秀吉に仕えるようになり、所領はそのまま高取に2万5000石を与えられた[1]。
ただ、この時期の利久、俊政には史料上の混乱が多い。俊政が本多家の家督を継承したのは秀長が存命中とも、慶長8年(1603年)に父が死去した際ともいわれている。また、史料で「本田因幡守」が天正20年(1592年)5月に壱岐国に在番し、朝鮮出兵に向けた海上輸送を担当していたとするほか、文禄2年(1593年)8月時点でも壱岐国に在番しているとする史料があり、この因幡守が俊政のことを指すのか、あるいは父の利久のことなのかは不明である。
慶長5年(1600年)、徳川家康による会津征伐が始まると従軍。しかしその最中に石田三成ら西軍が畿内で挙兵したため、東軍に属して反転西上した。岐阜城の戦いでは福島正則の軍勢に属して攻略に大いに貢献。その功績を賞されたという。なお、同年8月27日付で本田因幡守宛徳川家康書状が出されている。関ヶ原本戦に参加したかどうかは不明。一方、居城の高取城は留守居の家臣が西軍の攻撃から守り切ったという。戦後は家康から所領を安堵され、高取藩2万5000石の藩主となった[1]。
慶長15年(1610年)閏2月8日に死去。家督は嫡子・政武(利長)が継承した[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]