木村高重

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木村 高重(きむら たかしげ、? ‐ 天正10年6月5日1582年6月24日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将六角氏、次いで織田氏家臣

略歴[編集]

官途は左近大夫。仮名は次郎左衛門尉

近江国国衆で、安土のあたりの出身。家は沙々貴神社神官だったといわれている。最初は六角義賢に仕えたが、永禄11年(1568年)に義賢が織田信長の侵攻に敗れて没落すると、信長に仕えて奉行衆の一員に列した。

天正3年(1575年)、山岡景隆と共に勢多大橋の建造を命じられ、7月12日に柱立が行なわれる。さらに10月には信長の右大将拝賀の式典のため、禁中に陣座を造ることを命じられた(『信長公記』)。天正4年(1576年)から安土城築城が開始された際、木村は天守閣創設の普請奉行を担当した(『信長公記』)。11月11日付で信長から近江の諸職人の統制を任されている。

安土城下が整備された天正5年(1577年)6月に信長は城下町に宛てて掟書を発しているが、その中で町に譴責使を入れたりする時は福富秀勝か木村に届け出るように命じているなど、安土の城下町の奉行を任されていたことがうかがえる。その後も、甲賀郡の竹木に関して、あるいは近江国中の畑役について、さらに野洲市場に国役や郡役を免除する際に木村がその役目を果たしており、信長から安土ばかりか近江国における商工業者を統括する奉行としての役目を与えられていたと考えられている。

天正9年(1581年)9月8日、信長から長年の労を賞されて小袖を与えられた。この際に狩野永徳岡部又右衛門らも恩賞を授かっており、木村は彼らを束ねる奉行として働いていたものと考えられている(『信長公記』)。

天正10年(1582年)5月29日、信長が上洛する際に安土城2の丸の番衆の1人に任命されて守備につく(『信長公記』)。しかし6月2日に本能寺の変が起こって信長は明智光秀に殺された。この際、同じ2の丸の番衆だった蒲生賢秀が信長の妻子一族を連れて近江国日野城に退去する際、後の安土城守備は木村に任されたとされている(『信長公記』)。

その後、安土城に向けて軍を発した明智軍に対し、木村はその入城を阻むために抗戦し、百々橋において戦死した(『木村家譜』)。