済子女王

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済子女王(せいしじょおう、生没年不詳)は、平安時代中頃の皇族女性。伊勢斎宮となったが強姦されて処女を失い、解任された。

章明親王の娘、つまり醍醐天皇皇孫にあたる。母は藤原敦敏であり、姉に斎宮隆子女王がいる。

生涯[編集]

皇族とは言え傍流であり、身分は高くなかったと思われる。永観2年(984年)の11月4日、花山天皇即位により斎宮に選ばれた。年齢は不詳だが、斎宮なので十代の少女だった可能性が高い。伊勢斎宮は伊勢神宮に仕える巫女であり、都で身を清めてから伊勢に向かう。当然、巫女だから処女であることが必要である。だが、そのことが女王に悲劇をもたらした。

当時の花山天皇は、藤原氏主流派から疎まれており、天皇の地位から引きずり下ろすことが画策されていた。斎宮は王権を支える巫女であり、その巫女を失うことは花山天皇の権威を傷つける。そこで女王が狙われたのである。

選定翌年にあたる寛和元年(985年)9月2日に、宮城内の初斎院左兵衛府に入った後、同月26日には野宮に入り、一年間身を清めることとなる。しかし、藤原氏の非協力により、建物も未完成でぼろぼろであり、葬送の火が見えるような葬場近くの閑散とした場所に立てられ、不吉であった。

案の定、9月28日に、野宮を盗賊が遅い、侍女の衣装が奪われた。侍女も処女であるはずで、当時、衣装を奪うということは、性交にも及んだということであると考えられ、女王の代わりに侍女が強姦の犠牲となったとも推測できる。

潔斎を続けていたが、翌年の寛和2年(986年)6月19日に、女王は、野宮を去ることとなった。建前としては花山天皇の譲位によるものとされたが、その真相は彼女が強姦されたことにあった。

日本紀略』、『本朝世紀』、『十訓抄』によれば野宮で滝口武者平致光との「密通」が露見したためと記されている。各種辞書を引くと載っている通り、平安時代の「密通」という言葉には強姦という意味も含まれている。平致光が野宮に入ったのは突然の乱入であったこと、妻が女王の侍女であり侵入の手引をしていたこと、またこの事件が意図的に広められたことから、強姦だったと考えられる。これは藤原氏による斎宮、ひいては花山天皇に対する攻撃だったのである。

『本朝世紀』には、「伊勢初斎宮を警御す。滝口平致光を差し遣はさる。密かに斎女王を突けりと云々」と生生しく記録されている。

後に神祇官祭文を渡して潔白を訴えたという。

処女を強姦で奪われた彼女がどのような人生を送ったか、その後は不明である。この強姦事件は、絵巻『小柴垣草紙』で描かれ、女王が武士を誘惑したと描かれているが、後世の脚色が入っている。