西園寺禧子

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西園寺禧子
禧子

西園寺 禧子(さいおんじ きし、藤原 禧子(ふじわら の きし)、 嘉元元年(1303年) - 元弘3年10月12日1333年11月19日))は、第96代天皇後醍醐天皇皇后中宮)。

女院号は始め北朝側より礼成門院(れいせいもんいん)と称されるが、のちにそれは廃され、死後に改めて南朝側より後京極院(ごきょうごくいん)の号を追贈された。

美少女として知られ、満年齢10歳で誘拐・強姦・妊娠するという悲劇を受けた。

系譜[編集]

太政大臣西園寺実兼の三女。長兄は左大臣西園寺公衡、四兄は今出川家の初代、太政大臣今出川兼季、長姉は伏見天皇の中宮西園寺鏱子(永福門院)、次姉は亀山上皇の妃西園寺瑛子(昭訓門院)。

経歴[編集]

父に溺愛されて育つ。正和2年(1313年)、皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)と結婚。『増鏡』によると、これは親王による略奪婚であったと伝えられる。

同年の秋頃には誘拐されており、翌年1314年初頭に発覚するが、発見されたときには、すでに親王宅で何度も強姦され、満年齢10歳ながらすでに妊娠五ヶ月だったという。皇女を出産するが夭折。

父は激怒したが、正式な結婚とすることで和解した。

文保2年(1318年)2月、尊治親王の即位に伴い、同年4月に女御宣下、次いで翌元応元年(1319年)8月には中宮に冊立される。

しかし元弘元年(1331年)、元弘の変によって後醍醐天皇が捕らえられ、翌元弘2年(正慶元年、1332年)3月に天皇が隠岐に流罪となると、禧子はそれに伴って同年5月、新たに立てられた北朝の光厳天皇より女院号を宣下されて礼成門院と称し、追って同年8月には出家する。

翌元弘3年(1333年)6月、後醍醐天皇が帰京すると、禧子は礼成門院の号を廃されて中宮に復され、間を置かずして皇太后となるが、それから間もなく、同年10月12日(11月19日)に崩御。享年31。同日、後京極院の号を追贈される。禧子の死後、後醍醐天皇の中宮には新たに後伏見天皇の第一皇女、珣子内親王が立てられた。

所生の皇子女[編集]

禧子は正和4年(1315年)に第二皇女、懽子内親王(のちの光厳上皇妃、宣政門院)を出産しているが、その後は自身の上臈であった阿野廉子に天皇の寵愛を奪われたこともあってか、子女を産むことはなかった。

なお、天皇がしばしば中宮御産の祈祷を行ったとされ、通説ではこれを「関東調伏」の祈祷の口実とするが、河内祥輔関東申次として幕府にも強い影響力を及ぼした西園寺家を外戚とする親王が誕生すれば、将来の皇位継承から除外された後醍醐天皇の皇子といえども鎌倉幕府がこれを無視することが困難になるため、禧子所生の親王の誕生を必要としたとする説を提示している。