敦賀藩
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敦賀藩(つるがはん)は、江戸時代中期から明治時代初期にかけて越前国敦賀郡に存在した藩である。藩庁は敦賀陣屋。現在の福井県敦賀市に存在した。別名は鞠山藩(まりやまはん)といわれている。
概要[編集]
越前国敦賀は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、豊臣秀吉の家臣であった大谷吉継が5万石で支配していた。吉継は関ヶ原では西軍に属し、関ヶ原本戦において奮戦するも小早川秀秋の裏切りにあって戦死した。これにより大谷氏は大名家としては滅亡した。
その後、敦賀は福井藩領となっていたが、天和2年(1682年)7月、小浜藩の第2代藩主・酒井忠直の次男の忠稠が、父の遺言に基づいて遺領10万3500石のうち、越前敦賀郡・近江国高島郡のうちにおいて1万石を分与されたことにより立藩した、小浜藩の支藩である。貞享4年(1687年)に忠稠は敦賀郡東浦村の鞠山に陣屋を置いたので、この藩は鞠山藩とも言われている。ただし、正式に藩名が変更されたのは明治3年(1870年)3月19日であった。
譜代大名の小藩であり、特に特筆するような藩政は無い。ただ、譜代大名の名門だったことから小藩であるにも関わらず城主格とされ、さらに歴代藩主の内何人かが若年寄に任命されるなど、江戸幕府から重用されている。
明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還が行われた。明治3年(1870年)9月17日、敦賀藩改め鞠山藩は小浜藩に併合された。これにより藩としては廃藩置県を待たずして消滅した。
後に小浜県、そして鯖江県と合併し、明治4年(1871年)11月に敦賀県となった。
歴代藩主[編集]
- 酒井家
- 忠稠(ただしげ) 従五位下 右京亮
- 忠菊(ただぎく) 従五位下 飛騨守
- 忠武(ただたけ) 従五位下 右京亮
- 忠香(ただか) 従五位下 飛騨守
- 忠言(ただのぶ) 従五位下 相模守
- 忠藎(ただえ) 従五位下 飛騨守 〔えは草冠+盡〕
- 忠毗(ただます) 従五位下 右京亮 〔ますは田+比〕
- 忠経(ただつね) 従五位下 右京亮