志賀道易

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志賀 道易(しが どうえき、? - 天正15年(1587年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大友家の一族で家臣。道易は法号で諱は親度(ちかのり)。他の名乗りに親慶親教親孝。法号に道駅もある。官途・受領名は民部大輔(大夫)・兵部大輔・安房守。父は志賀親守。子に親次正室大友宗麟の娘[1]

生涯[編集]

天文19年(1550年)の二階崩れの変の際、義鎮(宗麟)から父と共に地位を保証する旨の誓書を与えられている[1]天文21年(1552年)に家督を継ぐ[1]弘治2年(1556年)に小原鑑元を、翌年に筑前秋月文種を討伐し、その功により肥後玉名郡菊池郡などに150町歩を与えられた[1]永禄12年(1569年)から天正4年(1576年)まで宗麟の加判衆を務める[1]。天正6年(1578年)の耳川の戦いでは父に従って肥後に駐在した[1]。この耳川で大友軍が大敗して以降は島津軍に押される一方となり、天正8年(1580年)から道易は日向の各所に在陣して島津軍の北上を阻止した[1]

しかし天正14年(1586年)に入田義実の誘いに応じて島津義久に通じた[1]。このため天正15年(1587年)に島津義久が豊臣秀吉九州征伐で降伏すると大友義統の追求を受けて自害を余儀なくされた[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 『戦国人名事典コンパクト版』 1990年、P385

参考文献[編集]

  • 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9