岡重政
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岡 重政(おか しげまさ、? - 慶長18年(1613年))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。陸奥会津藩の蒲生氏の家臣。
生涯[編集]
若狭国の守護大名であった武田信豊の曾孫であると伝わる。正室は石田三成の次女・小石殿。子に岡吉右衛門がいる。通称は半兵衛(はんべえ)。
蒲生氏郷に仕えるが、文禄4年(1595年)に氏郷が死去するとその嫡子の秀行に仕えた。秀行は幼少のため、関ヶ原の戦いを経て秀行が会津に戻されると、重政は仕置奉行に任命されて藩政を担当した。だが、慶長17年(1612年)に秀行が30歳の若さで亡くなり、その後継者に秀行と振姫の嫡子である忠郷が家督を継承するが、忠郷は相続時わずか10歳のため、母親の振姫が後見人となって藩政を見ることになった。このため、後見人の振姫と仕置奉行の岡による抗争が始まる。岡は振姫と意見が合わず、また氏郷没後からの蒲生騒動が再燃したため、振姫の父である徳川家康や兄の秀忠も家中騒動を懸念して法度を示して目付を下向させるなどしている。
だが、岡と振姫の抗争はやまず、慶長18年(1613年)に家康の命令で岡は駿府城に召還されて死罪を命じられた。
息子の吉右衛門は同僚の町野幸和(重政の補佐役を務めていた)の庇護を受け、その娘を娶り、於振(自証院)を生んだ。於振は春日局の養女となり、江戸幕府の第3代征夷大将軍・徳川家光の側室として長女の千代姫(霊山院)を生み、この血統は現在まで存続している[1][2]。