室賀正武
室賀 正武(むろが まさたけ、? - 天正12年7月7日[1](1584年8月12日))は、安土桃山時代の武将。信濃小県郡の国衆[1]で武田氏、織田氏、後北条氏、徳川氏に仕えた。父は室賀満正で3男[1]。兄弟に善龍、屋代正長、屋代秀正、依田九助室、満俊。官途は兵部大夫[1]。
生涯[編集]
天正10年(1582年)3月に織田信長の武田征伐で武田家が滅亡した直後の4月に父・満正が死去したため、家督を相続した[1]。しかし正武の家督相続に不安視した家臣・滝沢八兵衛が小泉氏に寝返っている(『滝沢家文書』)。室賀氏は武田氏滅亡後は屋代氏と共に織田信長から北信濃の川中島4郡を与えられた森長可に従って4月に上杉景勝に属した芋川秀正が起こした芋川一揆を森長可と共同して打ち破った(『屋代秀正覚書』)。なお、この4月に真田昌幸が暗躍する形で禰津昌綱の家臣が正武の家臣に調略を仕掛けてこの調略で「室賀家中過半納得」になったとされ(『加沢記』)、このため昌幸が正武に対して攻撃を仕掛けたとされているが、正武は撃退したという[1]。しかし織田信長が存命している時期にその支配下にある国衆同士が争うなど許されるはずも無いし、禰津氏もこの段階で真田昌幸の家臣ではないため、時系列の間違いか偽文書の可能性が指摘されるが、このように室賀氏と真田氏が武力で対立するほど不仲だったということが伺える[1]。
6月の本能寺の変で信長が横死し、森長可ら旧武田領を任されていた織田家臣団が次々と美濃に逃亡すると、正武はしばらく独立勢力として割拠している。しかし8月に弟の満俊が屋代秀正と共に上杉景勝に臣従し、その結果景勝によって満俊に正武の所領を与えるという約束が成されてしまった[1]。この間の事情は判然としないが、正武も後ろ盾を得るためか北条氏直に従属した[1]。氏直に対しては真田昌幸が氏直から離反した際に同調者がいないかどうかの報告をしている[1]。
天正壬午の乱の結果、徳川家康と北条氏直との間で和睦が結ばれ、信濃が徳川領になると正武は家康に従った[2]。天正11年(1583年)5月19日、屋代秀正と共に大久保忠世の指揮下に入った[2]。
その後、家康から真田昌幸の所領を与える事を条件にされて昌幸の謀殺を命じられた[2]。しかし昌幸にこの謀殺計画を察知されて先手を打たれ、正武は逆に誘き出されて謀殺された(『加沢記』『士林泝洄』)。