太田泰昌

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太田 泰昌(おおた やすまさ、? - 永禄6年8月4日1563年8月22日))は、戦国時代武将後北条氏家臣

略歴[編集]

仮名は又三郎。官途は弾正忠。受領名は豊後[1]

父は太田豊後守と言われる[2]。この太田氏は藤原氏の流れを汲み、三善姓太田越前守家や源姓江戸太田氏とは別の系統と言われる。最初は北条氏綱に仕え、鶴岡八幡宮の廻廊奉行を務めた。最初は玉縄衆に配属されていたが、天文10年(1541年)11月に武蔵国河越城において戦功を挙げていることから、河越衆に配置替えされていることがうかがえる。天文23年(1554年)には下総国古河城攻めで戦功を挙げており、この時は松山衆に配属されている[1][2]

永禄2年(1559年)の役帳では松山衆の寄親の1人として相模国千代に所領を592貫文余ほど領しているのがわかる。北条氏康北条氏政に仕えて武蔵松山城の城将に任命されており、永禄6年(1563年)に死去するまで在城していたと見られている。法名は宗清[2]

家督は一門の十郎が継承しているが[2]、息子かどうかは不詳である。

脚注[編集]

  1. a b 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P225
  2. a b c d 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P226

参考文献[編集]