橋蕤
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橋 蕤(きょう ずい、? - 197年9月)は、中国の後漢末期の武将。袁術の家臣で大将軍に任命された。
生涯[編集]
193年に袁術が揚州を支配した際に張勲と共に大将軍に任命される[1]。
197年に張勲と共に徐州の呂布を討伐するが、楊奉と韓暹の裏切りで大敗し、呂布に生け捕られたが釈放されて袁術の下へ帰還している(『後漢書』)。
197年9月に袁術が陳国に侵攻し、曹操がそれを討伐するために出陣すると、袁術は梁綱や楽就・李豊を付けて橋蕤に迎撃させて自らは淮南へ逃走した[1]。橋蕤らは曹操軍と戦って敗死した[1]。『于禁伝』によると苦県で曹操軍に包囲されて于禁に斬られたとされている。
橋蕤は張勲と共に袁術の下にあった孫策を尊敬していたと伝わる[2]。
『三国志演義』では楽就・李豊・梁綱と共に呂布討伐の指揮官を務めるが高順に敗れている。寿春の戦いでは曹操軍の勇将・夏侯惇と一騎討ちをして討たれた。