内藤綱秀
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内藤 綱秀(ないとう つなひで、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。仮名は孫四郎、官途は左近将監、受領名は大和守を称した[1]。
生涯[編集]
父は津久井城主の内藤康行で嫡子と言われているが、疑問点が多い。そもそも内藤氏歴代の九郎五郎を称していないし、諱にも「行」の通字を用いていない。しかも諱の「綱」は北条氏綱からの偏諱の可能性があり、先代の康行が北条氏康の偏諱を得ていることから考えても、綱秀のほうが年上だった可能性すらある。そのため、綱秀は庶流の出身で、養子として家督を継承した可能性がある[1]。
史料上では永禄10年(1567年)5月から確認できるが、この史料には問題もあるため疑問視されている[1]。
確実な史料では天正8年(1580年)閏3月である。北条氏政・氏直の2代に仕え、天正14年(1586年)1月に家督を嫡子の直行に家督を譲って隠居した[1]。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐では津久井城に籠城したが、豊臣軍に攻められて6月25日に降伏した。その後の動向は不明である[1]。