内藤綱秀

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが内藤綱秀の項目をおカタく解説しています。

内藤 綱秀(ないとう つなひで、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将後北条氏の家臣。仮名は孫四郎、官途は左近将監、受領名は大和守を称した[1]

生涯[編集]

父は津久井城主の内藤康行嫡子と言われているが、疑問点が多い。そもそも内藤氏歴代の九郎五郎を称していないし、諱にも「行」の通字を用いていない。しかも諱の「綱」は北条氏綱からの偏諱の可能性があり、先代の康行が北条氏康の偏諱を得ていることから考えても、綱秀のほうが年上だった可能性すらある。そのため、綱秀は庶流の出身で、養子として家督を継承した可能性がある[1]

史料上では永禄10年(1567年)5月から確認できるが、この史料には問題もあるため疑問視されている[1]

確実な史料では天正8年(1580年)閏3月である。北条氏政氏直の2代に仕え、天正14年(1586年)1月に家督を嫡子の直行に家督を譲って隠居した[1]

天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐では津久井城に籠城したが、豊臣軍に攻められて6月25日に降伏した。その後の動向は不明である[1]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e 『戦国北条家一族事典』 戎光祥出版。2018年。P217