内藤康行
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内藤 康行(ないとう やすゆき、生没年不詳)は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣。仮名は九郎五郎、官途は左近将監を称した[1]。
生涯[編集]
父は津久井城主の内藤朝行で嫡子。もとは扇谷上杉氏の家臣だったが、後北条氏に仕えてからは津久井城主の地位、並びに所領とその家臣の知行もそのまま保障されていた。後北条家からは津久井衆と称されていた[1][2]。
史料上においては天文5年(1536年)8月に津久井の光明寺の寺領を安堵しているのが初見である。なお、この時期はまだ父が存命していたが、早くから家督を譲られて当主になっていた。康行は北条氏綱・氏康・氏政の3代に仕え、永禄2年(1559年)の『北条氏所領役帳』では津久井衆筆頭として、津久井地域一帯を所領としているのがわかる[2]。諱の康は氏康からの偏諱と考えられる。
康行は晩年は出家して法讃と号している。史料上では天正7年(1579年)まで確認できるが、天正8年(1580年)からは嫡子の綱秀が家督の地位にあることが確認できるため、この頃に死去した可能性が高い[2]。