伏見藩

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伏見藩(ふしみはん)とは、江戸時代前期のごくわずかな期間に山城国に存在したである。藩主家は譜代大名久松松平家。石高は5万石。藩庁は伏見城。現在の京都府京都市伏見区に存在した。

概要[編集]

詳細は「伏見城」を参照

伏見城は豊臣秀吉によって築城され、晩年の秀吉はここで政務をとった。慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、伏見城は秀吉から政権を委託された徳川家康の居城も同然となる。慶長5年(1600年)に石田三成ら反家康派が挙兵すると、伏見城は関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いが行なわれる。家康から伏見城の守備を任されていた鳥居元忠は、内藤家長らと共に奮戦して貴重な時間を稼いで玉砕。東軍の勝利に貢献した。

戦後、家康は伏見城の再築を行い、ここを徳川方の畿内における楔として使用するようになる。慶長12年(1607年)、家康は親族の松平定勝遠江国掛川藩3万石から2万石を加増して5万石の上で伏見に移封させ、ここに伏見城が立藩した。この際、掛川藩は3万石で定勝の嫡男松平定行に与えられている。

慶長20年(1615年)5月、大坂の陣豊臣氏が滅亡すると伏見城は戦略的な拠点としての価値を失う。元和3年(1617年)に定勝は伊勢国桑名藩に6万石加増の11万石で移封となり、こうして伏見藩は廃藩となった。伏見城も元和9年(1623年)に破却された。

歴代藩主[編集]

松平(久松)家[編集]

親藩 - 5万石

氏名 よみ 官位・官職 在任期間 備考
1 定勝 さだかつ 従四位
左近衛権少将
慶長12年 – 元和3年
1607年1617年
久松俊勝の4男
徳川家康の異父弟