中島重房
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中島 重房(なかじま しげふさ、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。長宗我部氏、次いで藤堂氏の家臣[1]。
略歴[編集]
仮名は与市兵衛(よいちべえ)。入道して未及という[1]。Wikipediaでは中島親吉の孫とされているが、実際には息子[1]であり、Wikipediaの信頼性をよく物語る記事の1つである。
最初、長宗我部元親に仕えて天正14年(1586年)12月の戸次川の戦いに参加し、この戦いで長宗我部軍は長宗我部信親をはじめとして多くの武将を失うが、重房は生き延びた[1]。Wikipediaではこの時のことを「戸次川の戦い敗戦後、16歳で戦功をあげ」などとわけのわからないことを書いているが、恐らくは戸次川合戦から敗走の最中に地元の土豪に襲撃された際、重房はこれを返り討ちにして無事に帰国を果たした[1]ことを言っているのだと思われる。なお、このときの活躍を元親からも賞賛された[1]。Wikipediaでは16歳と書かれているが、彼の年齢を示すようなものは存在しない。
天正16年(1588年)、元親の命令で土佐国の検地に当たった際に検地奉行を務めた。書家としても優れており、文武両道の人物だったといわれる。慶長4年(1599年)、元親が死去すると長宗我部盛親に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにも従軍し、戦後に長宗我部家が改易されると浪人になった。その後、藤堂高虎に仕官するが、大坂の陣が始まると旧主の盛親を慕って大坂城に入城し、慶長20年(1615年)の八尾の戦いに参加して奮戦した[1]。