下妻城

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下妻城(しもつまじょう)とは、現在の茨城県下妻市本城町2に存在した日本である。

概要[編集]

室町時代中期の享徳3年(1454年)、武蔵国埼玉郡私才の領主・多賀谷氏家が、鎌倉公方足利成氏の命令で関東管領上杉憲忠を殺害した功績で下妻荘と関郡を与えられ、下妻城を築城した。以後、この城は多賀谷氏が支配するようになったので、多賀谷城(たがやじょう)とも呼ばれる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、当時の城主である多賀谷重経は、徳川家康の出兵命令を拒否したので慶長6年(1601年)に改易となり、多賀谷家6万石は消滅。重経はさらに追放となり、佐竹義宣を頼って出羽国秋田藩に移った。

その後は家康の息子である徳川頼房が入って居城としたが、慶長14年(1609年)に頼房は常陸国水戸藩に移った。元和元年(1615年)から元和5年(1619年)までは松平忠昌松平定綱らが城主となった。後に天領となり、正徳2年(1712年)に井上正長が1万石で入り、以後は井上氏が14代続いて明治時代を迎えた。

現在、城跡には土塁や堀の一部が残存しているのみで、下妻市役所前の小さな公園の中に多賀谷城跡の碑が建立されている。

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