アドルフ・ヒトラー
アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889年4月20日 - 1945年4月30日)は、ドイツの政治家である。オーストリア出身。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)党首。
来歴[編集]
- 1889年 生まれる。
- 1923年 ミュンヘン一揆に参加し逮捕される
- 1924年 禁錮5年の判決を受ける(実際には1年で釈放)
- 1932年 大統領選挙に立候補するが次点で敗れる
- 1933年 首相に就任する
- 1934年 ヒンデンブルク大統領が死去し総統に就任する
- 1945年4月30日 自殺する。その後、ドイツは降伏。
人物[編集]
父親は税務官僚であった。高等教育を受けずに吏員となり、叩き上げで中間管理職まで昇進した。退職末期の俸給は小学校校長よりも多かった。この父親はアドルフ・ヒトラーを技術者にしようと実業学校に進学させた。しかし本人は実業学校の教育には関心を示さず、落第、そして退学する。その後、美術アカデミーを受験したが2度失敗、2度目の受験で面接担当者から「君は技術アカデミーに行った方がいい」と言われた。しかし後の祭りだった。技術アカデミーの入学には実業学校は卒業しておくべき学校だった。その後、オーストリア軍に徴兵されそうになるとドイツのミュンヘンに逃亡[1]。描いた絵を売って稼いだりしていたが、結局オーストリアに連れ戻された。幸いにも、栄養失調で徴兵は不合格となった。
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍の伝令役としてフランスと戦った。その際鉄十字勲章など多くの勲章を受章しているが、軍の階級は伍長止まりだったので、よく 伍長閣下、伍長止まりの美大落ちといじられる[2]。
第一次世界大戦での制裁(ヴェルサイユ条約)や世界恐慌を受けて経済的に苦しかったドイツを立て直した立役者とされる。
IQ150の天才と言われたが、軍事的才能には乏しく、バルバロッサ作戦等のあまりにも杜撰な戦争を全方面に仕掛けた挙句、全世界を敵に回すこととなり自壊して果てた。
(軍部は提唱していたとは言え)実際の本土決戦には至らなかった日本とは異なり、既に勝敗は事実上決しているにもかかわらず、ソ連軍がベルリンに突入するまでしぶとく降伏をせず、その結果膨大な数の死者を出すこととなり、首都ベルリンは徹底的に破壊され連合国4ヶ国の分割統治となる(ベルリンの戦い)。また自身の暗殺未遂事件(7月20日事件)の時、関与を疑われた砂漠の狐ことロンメル元帥を自殺させた。最後は自分も自殺することになるが、ヒトラーの場合完全に自業自得である。
大量殺人をした極悪人のランキングではスターリンや毛沢東の後塵を拝している場合が多い[3]が、そもそもアドルフ・ヒトラーは人類史上最も死者の多かった戦争としてギネスブックにも掲載されている第二次世界大戦(死者約6,000万人)を引き起こした張本人であるため、ヒトラーこそが人類史上最も多くの人を殺害した人間という見方をすることも出来る。
その後[編集]
ドイツではこの話をいわゆる反面教師として、独裁者を生み出さないようにしてきた。
その例として、ヒトラーを尊敬、服従などをすると見られる行為への罰則がある。実際ギリシャのスポーツ選手でナチス式敬礼をうっかりしてしまいその選手は引退になった例がある。
日本では映画「ヒトラー 〜最期の12日間〜」作中のヒトラーを素材とした総統閣下シリーズ(そうとうかっかシリーズ)がインターネット上で著名である。
その他[編集]
- チャールズ・チャップリンは1940年にヒトラーやナチスを風刺した映画「独裁者」を公開した。尚、チャップリン本人も出演しており、独裁者役とユダヤ人役の一人二役で登場する。ちなみに、ヒトラーとチャップリンの誕生日は僅か4日差であるという。(ヒトラーは1889年4月20日、チャップリンは同年4月16日)
- 第一次世界大戦では、潜んでいた敵兵たちに「お前らを完全に包囲した」とウソ演説をし、多数の敵を捕虜にして勲章を貰っている。また、毒ガス攻撃で一時的に失明した経験もある。
動画[編集]
脚注[編集]
- ↑ ヒトラーはオーストリアのハプスブルク家を嫌っており、ドイツ皇帝の方を尊敬していた。
- ↑ 当時のドイツ帝国軍では身分が重視され、平民出身者の出世は絶望的だったため、必ずしもヒトラーの能力不足というわけではない。
- ↑ https://www.thedailybeast.com/saddam-hussein-hitler-stalin-mao-and-more-13-deadliest-dictators-photos