関藩
ナビゲーションに移動
検索に移動
関藩(せきはん)は、江戸時代初期のごくわずかな期間だけ美濃国に存在した藩である。藩庁は関陣屋。藩主家は外様大名の大島氏。石高は1万8000石。現在の岐阜県関市に存在した。
概要[編集]
この藩を立藩した大島光義は、織田信長や豊臣秀吉に仕えた戦国武将であり、弓の名人として知られていた。光義の所領は美濃国・摂津国・尾張国などに合わせて1万1200石ほどであった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、光義は東軍に属して戦功を立てたので、戦後に徳川家康から6800石を加増されて合計1万8000石の大名となった。この際、所領が美濃国加茂郡・武儀郡・各務郡・蓆田郡・池田郡・大野郡、摂津国武庫郡・豊島郡などに分散されている。光義は藩主としてあること4年、慶長9年(1604年)に死去した。
死後、家督は長男の大島光成が継承したが、光成は自身の所領は7500石ほどしか継がず、残りは次男の大島光政が4710石、3男の大島光俊が3250石、4男の大島光朝が2550石とそれぞれ分与されたので関藩は消滅し、廃藩となった。光成は慶長13年(1608年)に死去し、家督は子の大島義豊が継承する。ところが義豊は継嗣無く寛永14年(1637年)に死去し、大島家の宗家はここに断絶となった。
歴代藩主[編集]
- 大島家
外様。1万8000石。