関ヶ原始末記
関ヶ原始末記(せきがはらしまつき)とは、関ヶ原の戦いについての史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著書の奥書に「若狭羽林」とある。これは江戸幕府の大老・酒井忠勝(若狭国小浜藩主)のことであるが、忠勝が徳川家康の武勲を世に知らしめるため、見聞などを基にして、林羅山と林春斎に編纂させ、明暦2年(1656年)に成立させたという。
酒井忠勝や林羅山は関ヶ原の戦いの時点でそれぞれ14歳、18歳であり、忠勝は徳川秀忠に従って上田合戦に初陣している経験者である。また、始末記の内容が太田牛一の『関原記』に似ているため、これを参考にした可能性がある。なお、この始末記を参考にして成立したのが、『関原軍記大成』である。
別称は『関原始末記』、『関ヶ原始終軍記』(せきがはらしじゅうぐんき)、『関ヶ原日記』(せきがはらにっき)など。
内容[編集]
全2巻。著者が著者なので、家康に対するバイアスが半端ない。豊臣秀吉の死去から始まっているが、秀吉が死んだ時点で「諸大名が家康に帰服した」とある。また、七将事件の際に石田三成が加藤清正らに追われた際、家康が庇護して佐和山城まで送ったことにされている。その後、会津征伐から伏見城の戦い、北陸や東北の諸戦役などが描かれている。
関ヶ原の戦い本戦、その前後の大津城の戦いなど、現在一般的に知られている関ヶ原の戦いについてこの軍記が原型になっているといってよい。関ヶ原の戦後処理までが描かれている。
ただし、中山道を進軍して真田昌幸のために妨害されて本戦に間に合わなかった秀忠軍の動向は全く描かれていないし、「遅参」ということについても直接には触れていない。例えば、慶長5年(1600年)9月20日に秀忠が草津に到着して大津城にいる家康との対面を求めて拒否されたことについて、この著書では全く言及していない。つまり秀忠に対する政治的配慮、そして秀忠軍に従軍していた酒井忠勝の配慮が働いた結果ではないかと推定される。