関原記
ナビゲーションに移動
検索に移動
関原記(せきがはらき)とは、関ヶ原の戦いに関する史料である。
概要[編集]
著者・成立年代[編集]
著者は太田牛一。成立年代は慶長6年(1601年)12月7日条に山科言経の『言経卿記』から確認できるため、少なくとも関ヶ原合戦の翌年には書き始めていたと考えてよい。太田が死去する慶長18年(1613年)までには成立したと見るべきだろう。太田の書状などから、恐らく太田が死去する前年の慶長17年(1612年)には成立していたと見ることができる。
別称は『関ヶ原御合戦記』(せきがはらごがっせんき)、『内府公奥州軍記』(ないふこうおんしゅうぐんき)、『関原状』(せきがはらじょう)、『太田泉州関原日記』(おおたせんしゅうせきがはらにっき)、『関ヶ原軍記』(せきがはらぐんき)、『関東軍記』(かんとうぐんき)。著者の太田は自らの書状で『関ヶ原御合戦双岱』(せきがはらごがっせんそうたい)と書いている。
内容[編集]
全1巻。言うまでも無く、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦についての記録である。ただ、合戦の翌年に成立しているので、かなり信頼性は高いと見られる。
記録は会津若松城主の上杉景勝の反逆から始まり、徳川家康による会津征伐、大坂方の挙兵、伊勢国や美濃国、加賀国、丹後国などの戦い、徳川秀忠と真田昌幸による第2次上田合戦、福島正則らの岐阜城攻め、黒田長政らの江渡川の戦い、大津城の戦いと開城、関ヶ原本戦と佐和山城の戦い、大垣城の戦い、石田三成らの処刑、家康の大坂城入城と征夷大将軍就任、そして家康の威光を讃える形で終了している。
記述は基本的には日付を追う形にされ、極めて簡潔に記録されており、物語としての面白さはほとんどない。むしろ日記に近いものである。