野村直邦
野村 直邦 のむら なおくに | |||||||||||||||||||||||||||
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野村 直邦(のむら なおくに)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍大将。東條英機内閣末期の海軍大臣。
略歴[編集]
鹿児島県出身。海兵35期。大正9年(1920年)、第一潜水隊参謀となり、その後は潜水艦関係の要職を歴任。大正11年(1922年)から大正13年(1924年)にかけてはドイツに駐在し、潜水艦の研究に取り組んだ。ドイツとの関係が深く、在独日本大使館付武官を務めたドイツ通として知られており、昭和15年(1940年)9月に日独伊三国同盟が締結される際にはベルリンに赴き、昭和18年(1943年)7月まで駐在した。アドルフ・ヒトラーは通商破壊を促す意味で、Uボート2隻を日本に贈与しているが、野村はその1隻に乗って日本に帰国し、帰国後は呉鎮守府司令長官に任命されて潜水艦建造に尽力した[1]。
昭和19年(1944年)7月、サイパン島の陥落により東条英機内閣への不満が高まった。また、「東条の副官」とまで称されるように東条に追従していた海相の嶋田繁太郎にも不満が高まっていた。嶋田は海相と軍令部総長を兼任しており、それが重臣や長老らから不満を高めて辞職を迫られるようになった。嶋田は内閣の延命策として海相を辞職して総長に横滑りし、後任の海相になったのが野村だったという。野村は降ってわいたような海相の地位に驚き、青天の霹靂のように慌てたという。海相の親任式が昭和19年(1944年)7月17日午前4時、東条内閣の内閣総辞職が7月18日午前10時で、後任海相の米内光政が就任したのが7月22日だったから、野村の海相在任期間はわずか5日間、いや実質的な在任にすればわずか1日と6時間で、これは歴代海相の中でも最短記録であった[1]。
戦後は特に目立った動きは無く、昭和48年(1973年)に死去した。享年89(満88)。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]