逢紀

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逢 紀(ほう き、? - 202年)は、中国後漢末期の政治家武将元図(げんと)[1]

生涯[編集]

荊州南陽郡の出身。最初は後漢王朝の外戚大将軍であった何進に智謀の士として何顒荀攸と共に招聘された(『後漢書』)。189年に何進が宦官によって暗殺されると、袁紹に従って191年には袁紹に冀州を奪うために韓馥を脅迫すること、公孫瓚を利用することなどを献策し、目論見通り公孫瓚の武力を恐れた韓馥に冀州を袁紹に譲渡させて袁紹軍の基盤を築くことに貢献した[1]

袁紹には重用されたが性格に問題が多く、同僚の田豊審配とは不仲で対立していた[1]曹操軍の参謀である荀彧からは「向こう見ずで自分の判断でのみ動く」と評価されている[1]200年官渡の戦いでは長期戦を主張する田豊や沮授に対して短期決戦を主張し、その短期決戦を受け入れた袁紹が敗れると自らの讒言もあって投獄されていた田豊が重用されることを恐れて再び讒言して処刑に追いやった[1]。なお、官渡の戦いでは審配と共に袁紹軍の軍事を統括していた[1]。そのためか、蒋奇孟岱が審配を讒言した際、逢紀は逆に袁紹に対して「私情と国家の問題は別である」として審配を弁護して窮地から救い出している[1]

202年に袁紹が死去し、袁氏内部で後継者争いが起こると審配と共に袁尚を支持する。これは逢紀が袁紹の遺命を偽造して後継者は袁尚であると主張したためと『後漢書』には紹介されている。逢紀は袁尚の命令で袁譚の目付として送られるが、袁譚が曹操に攻められた際に袁尚が援軍を送らなかったので、激怒した袁譚によって殺害されたという[1]

三国志演義』でも史実通り田豊らを失脚に追い込んだり、数々の愚策を献策していわゆる「出ると負け軍師」を演じている。袁紹の死後、袁譚の下に目付として送られたのは袁譚の参謀である郭図の策略で袁尚と引き離すためだったとされ、袁尚は逢紀と審配のどちらを送るか迷って籤で当たりを引いた逢紀が目付として送られ、袁譚に殺されることになっている[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i 小出『三国志武将事典』P33

参考文献[編集]