車斯忠
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車 斯忠(くるま つなただ、? - 慶長7年(1602年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。常陸車城主。車丹波守の名で知られる人物である。
略歴[編集]
はじめ常陸国の戦国大名である佐竹義重・義宣父子に仕えていたが、天正18年(1590年)の小田原征伐後に蒲生氏郷が会津若松城主として入封してくると氏郷に仕官する。天正19年(1591年)の九戸政実の反乱鎮圧の際に氏郷に従って出陣するが、その際の陣中で喧嘩沙汰を起こしたために召し放ちとなり、氏郷の家臣・蒲生郷可に再仕官する。しかし氏郷没後の慶長3年(1598年)、その遺児である秀行が下野宇都宮城に減封の上、移封させられるとこれに従わずに会津に残留し、新たに越後から加増移封された上杉景勝に仕えた。これは一説に上杉景勝と連携しようとした佐竹義宣が、上杉氏に送り込んだとする説も存在する。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは佐竹氏との連絡要員として常陸国境付近に配置されている。このため、直江兼続が行なった最上義光攻めには参加していない。慶長6年(1601年)には上杉氏からも追放された。
その後、再度旧主の佐竹義宣を頼って常陸に赴くが、佐竹義宣も慶長7年(1602年)に徳川家康によって出羽秋田藩(久保田)に減移封となる。しかし斯忠は常陸に残留し、佐竹旧臣の一揆を結んで新たな領主である家康の5男・武田信吉に抵抗して水戸城を奪おうとして失敗し、処刑された。
逸話[編集]
斯忠の死後、その嫡男とも弟とも伝わる善七郎が家康を仇として付け狙い、失敗して捕縛された。しかし家康はその孝心に免じて善七郎を許し、江戸に住むことも許したという。