足利高基
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足利 高基(あしかが たかもと、? - 天文4年10月8日(1535年11月3日))は、戦国時代の大名。第3代の古河公方(在職:永正9年(1512年) - 天文4年(1535年))。
生涯[編集]
父は第2代古河公方の足利政氏で長男。母は不詳。妻は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。幼名は亀王丸[1]。別名は高氏(たかうじ)[1]。官途は左兵衛佐[1]。兄弟に義明、基頼。子に晴氏、高実、雲岳、上杉憲寛、大内晴泰、瑞山尼。
父の政氏は山内上杉氏・扇谷上杉氏との和平・友好関係を保とうと画策していたが高基は父の方針に反対して対立する[1]。永正3年(1506年)に高基は古河から出奔して下野の宇都宮氏を頼って下向した[1]。永正6年(1509年)に父と和解して古河に戻り、この際に諱を高基と改めた[1]。ところが北条早雲の策略にかかって再び父と対立し、永正9年(1512年)6月に父を下野祇園城の小山政長の下に追放し[2]、自ら第3代の古河公方に就任した[1]。永正11年(1514年)8月には父の要請を受けた佐竹義舜・岩城由隆らの攻撃を受けている。
この父子対立、いわゆる永正の乱の間に実弟で僧籍にあった空然が還俗して足利義明と称して自立し小弓公方を称し、永正16年(1519年)に政氏が武蔵久喜で隠居するまで対立が続くなど混乱は続いた[2]。高基は古河公方の勢力を再建するために南関東で勢力を伸ばしていた北条氏綱に接近し、嫡子の晴氏に氏綱の娘を娶り、後北条氏の勢力を背景にして勢力回復・拡大を図ろうとした[1]。
天文4年(1535年)に死去。跡を子の晴氏が継いだ。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9