上杉憲寛
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上杉 憲寛/足利 晴直(うえすぎ のりひろ、?/あしかがはるただ - 天文20年2月24日(1551年3月31日))は、戦国時代の武将・大名・関東管領である。
生涯[編集]
父は第3代古河公方の足利高基[1]。母は宇都宮成綱の娘・瑞雲院。兄弟に第4代古河公方の足利晴氏、足利高実、雲岳ら。子に上杉義勝。幼名は賢寿王丸[1]。通称は四郎[1]。足利姓の時の姓名は足利 晴直(あしかが はるなお)という[1]。
関東管領の上杉憲房には50歳を過ぎても嫡子に恵まれなかったため、憲寛は憲房の養子に迎えられた[1]。憲房には晩年になってようやく実子の上杉憲政が生まれていたが、大永5年(1525年)に憲房が死去した時にはまだ幼児だったため、憲寛が関東管領職と山内上杉氏の家督を継承した[1]。
しかし享禄4年(1531年)に憲政に攻められて上総宮原に逃亡し、関東管領職を憲政に譲った[1](関東享禄の内乱)。その後は足利姓に戻り晴直と名乗った。
天文20年(1551年)2月24日に死去。孫の宮原義照はその地名により宮原氏を称し、江戸幕府の旗本となった。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9