赤井輝子
赤井 輝子(あかい てるこ、永正11年(1514年) - 文禄3年11月6日(1594年12月17日))は、上野新田金山城城主・由良成繁の妻で戦国武将。落飾してからの法号は妙印尼(みょういんに)。孫に甲斐姫がいる。
略歴[編集]
父は上野国衆で館林城主の赤井重秀と言われる。同じ上野国衆である由良成繁の正室となり、その間に由良国繁・長尾顕長・渡瀬繁詮・娘2人の3男2女を生んでいる。なお、娘の1人は成田氏長に嫁ぎ、その間に生まれたのが甲斐姫である。
天正6年(1578年)に夫の成繁が死去すると、輝子は落飾して尼となり、妙印尼と号して桐生城に隠居した。家督は息子の国繁が継承したが、この国繁はあまり有能な人物ではなく、弟の顕長も似たり寄ったりの凡将だった。そのため、天正11年(1583年)9月に国繁・顕長の兄弟は北条氏直の命令で上野厩橋城に誘き出されてそのまま人質にされてしまい、その身柄の返還の代償に由良氏に対して4つの城を渡すように迫った。これを聞いた妙印尼はすぐさま金山城に駆けつけると戦備を整え、氏直の要求を敢然と拒否した。氏直は由良氏の領土に攻め入るが、妙印尼はわずか300の兵を突出させたりした巧みなゲリラ戦を展開して北条軍を撃退する。攻めあぐねた氏直は自身の面子もあるため、4城から2城に減らした上で交渉に入り、妙印尼も息子2人を取り戻すため、それを受け入れて金山城と館林城を氏直に引き渡し、氏直は国繁と顕長を解放した。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると、国繁と顕長は氏直の居城である小田原城に詰めることになるが、妙印尼はこの戦いに北条の勝算が無いと早くから見切っており、上野に残っていた国繁の子で自身の孫に当たる貞繁を連れて豊臣の別働隊を率いる前田利家・上杉景勝・真田昌幸らの軍勢に参加して大道寺政繁が守備する松井田城攻めに参戦した。このときに由良軍は妙印尼の指揮の下で戦功を挙げたとされ、その指揮ぶりに前田利家は「天晴な後家よ」と称賛した。この噂を聞いた秀吉も妙印尼と会見し、その顔をしげしげと眺めて本来なら処罰の対象となる国繁・顕長兄弟は助命し、貞繁には由良氏の家督と常陸牛久で5000石の所領を与えて由良氏の家名存続を認めた。
その4年後の文禄3年(1594年)11月6日、妙印尼は死去した。81歳没。