許靖
許 靖(きょ せい、? - 222年)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の政治家。字は文休(ぶんきゅう)[1]。従兄は許湯。従弟は許虔・許劭。子は許欽。孫は許游。
生涯[編集]
豫州汝南郡平輿県の出身[1]。若い頃は従弟の許劭と共に人物評価の名人として知られた[1]。許劭が郡の功曹になった際、許靖とは不仲だったため取り立てようとせず、許靖は馬磨きで生計を立てたという[1]。潁川郡の劉翊が汝南郡太守になると計吏に推挙され、やがて尚書郎に昇進して官吏の選抜を担当した[1]。
董卓が政権を掌握すると周毖と共に人事を担当し、韓馥・劉岱・孔伷らを地方長官として董卓に推挙した[1]。しかし190年に董卓討伐の連合軍が結成された際、この推挙したほとんどの諸侯が裏切ったため、董卓は激怒して周毖を処刑し、許靖は自らにも災いが降りかかる事を恐れて孔伷の下へ逃れた[1]。その後は揚州刺史の陳禕、さらに会稽郡太守の王朗を頼って身を寄せるが、孫策が会稽郡に侵攻すると交州へ逃亡して士燮に迎えられた[1]。
後に益州の劉璋を頼って身を寄せ、劉璋の下で巴郡・広漢郡・蜀郡などの太守を歴任する[1]。214年の劉備の入蜀では劉備軍が成都を包囲すると劉璋の降伏前に劉備に投降しようとして逃亡を企てて失敗する[1]。劉璋の降伏後、劉備はこの許靖の行為を不快に思ったが、法正から許靖の名声の広さなどを考慮する事を諭されて許され、左将軍長史に任命された[1]。
219年に劉備が漢中王に即位すると太傅となり、221年に皇帝に即位すると司徒に昇進したが、222年に死去[1]。年齢は70歳を過ぎていたという[1]。
『三国志演義』では第65回で劉備が成都を包囲すると城から脱出して劉備に帰順するところから初登場。その後は史実通りである。