織田信則
ナビゲーションに移動
検索に移動
織田 信則(おだ のぶのり、慶長4年(1599年)[1] - 寛永7年1月2日[1](1630年2月13日))は、江戸時代前期の大名。丹波柏原藩の第2代藩主。正室は岡部長盛の娘[1]。子は織田信勝(長男)、娘(植村家貞正室)、娘(石河貞利継室)の1男2女。官位は従四位下侍従、式部少輔、刑部大輔[1]。
生涯[編集]
初代藩主・織田信包の3男で、慶長19年(1614年)、父の死去により家督を継ぐ[1]。遺領の相続にあたって父と別に伊勢国伊勢に所領を持っていた兄の信重から異論が出されるものの、徳川家康によって退けられて信則の家督相続が認められ、信重は改易された[1]。
元和2年(1616年)10月25日、従五位下侍従に叙任する。後に従四位下侍従に昇進した。元和6年(1620年)1月18日、大坂城の修築工事を命じられる。寛永3年(1626年)、江戸幕府3代将軍・徳川家光の上洛に付き従った[1]。
寛永7年(1630年)1月2日に死去[1]。享年32[1]。家督は長男の信勝が継いだ[1]。法号は陽岩徳公恵照院[1]。墓所は東京都渋谷区恵比寿南の松泉寺[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『三百藩藩主人名事典3』藩主人名事典編纂委員会 編、1987年。新人物往来社