緒川藩
緒川藩(おがわはん)とは、現在の愛知県知多郡東浦町緒川に存在した藩である[1]。藩が存在したのは慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)のわずか5年間だった。藩庁は高薮城。
歴史[編集]
緒川は小川、小河とも書かれ、戦国時代には尾張・三河に勢力を張った水野氏の居城が存在した[1]。徳川家康の外祖父・水野忠政の時代に緒川から刈谷城(刈屋城)に居城を移し、その息子の水野忠元の時代には刈屋や緒川、大高、奥田、荒尾、西尾などに勢力を拡大して24万石の所領を有していた[1]。信元は織田信長の家臣となり、桶狭間の戦い後に信長と家康の清須同盟で仲介に尽力し、信長の下で多くの功績を立てたが、天正3年(1575年)に武田勝頼と内通した嫌疑により、信長の命令を受けた家康により殺害された[1]。その後、水野領の大半は信長の重臣・佐久間信盛に与えられたが、信盛は天正8年(1580年)に失態により信長の勘気を被って織田家中から追放された[1]。そのため、佐久間領は信長により信元の弟・水野忠守に緒川を、同じく弟の水野忠重に刈谷を与えた。この際、忠守は高薮城を居城としたが、後に緒川を退去した[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで覇権を確立した家康は、慶長6年(1601年)4月に信元・忠守・伝通院(家康の生母)の弟である水野忠分の子である水野分長に9820石(約1万石)を与えた[1]。分長は家康から見れば母方の従弟にあたる。緒川藩はわずか5年間の短期間のため、事績はほとんど伝わっていない。慶長11年(1606年)6月に分長は三河新城藩に移封され、緒川藩は廃藩となった[1]。
緒川藩は以後、清須藩主・松平忠吉(家康の4男)の所領に組み込まれた[1]。忠吉が翌年に死去して清須藩が廃藩となり、尾張藩主として徳川義直(家康の9男)が封じられると、緒川は尾張藩の所領に組み込まれた[1]。
歴代の家紋[編集]
- 水野氏(黒餅に沢瀉。永楽銭)
歴代藩主[編集]
水野家[編集]
9820石。譜代。
- 分長(わけなが)【慶長6年4月 - 慶長11年6月】