結城政勝

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちが結城政勝の項目をおカタく解説しています。

結城 政勝(ゆうき まさかつ、文亀3年(1503年) - 永禄2年8月1日1559年9月2日))は、戦国時代武将戦国大名下総結城氏16代当主。

生涯[編集]

父は結城政朝。弟に小山高朝がいる。

弟の高朝を強引に家督相続に介入し、小山政長嫡子がいるにも関わらずこれを無視して強引に小山氏を継承させると、天文8年(1539年)に那須政資那須高資父子の対立に際して、高朝や結城晴綱らと連携して高資を支持し、政資を助ける佐竹義篤小田政治宇都宮尚綱らと戦い、宇都宮軍を破った。天文16年(1547年)に父の政朝が死去すると、それに乗じた宇都宮尚綱の攻撃を受けるが、これも高朝と連携して破っている。

天文17年(1548年)に出家する。理由は唯一の嫡子であった明朝に先立たれたためと言われているが、明朝の死去には諸説があり不詳である。このため、高朝の3男を晴朝として養子に迎えて嫡子とした。天文18年(1549年)には3年前の河越夜戦で大敗して北条氏康の圧力を受ける古河公方足利晴氏を庇護したため、以後の結城氏は後北条氏とも敵対することになった。

しかし弘治元年(1555年)、その氏康と逆に連携して宇都宮広綱から常陸国小栗城を奪取。さらに弘治2年(1556年)には高朝、多賀谷政経水谷氏山川氏らと連携して常陸の小田氏治海老島の戦いで破って下野国南部、下総国北部を支配下に置いた。しかし小田氏治が再起したため、小田城と常陸の領土のいくらかをすぐに失っている。また同年、『結城氏新法度』を定めて飲食や衣類にまで及ぶ具体的な規定、喧嘩や口論などに関する罰則を定めた分国法を制定した。

永禄2年(1559年)に57歳で死去。養子の晴朝が家督を継承した。