竹林院 (真田信繁正室)

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竹林院(ちくりんいん、? - 慶安2年5月18日1649年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性真田信繁正室(継室)で大谷吉継の娘。真田幸昌片倉守信あぐり蒲生郷喜室)・菖蒲片倉定広室)・おかね石川貞清室)らの母。名は不詳。

生涯[編集]

大谷吉継の娘で、天正年間か文禄初期に豊臣秀吉の肝煎りで信繁と結婚した[1]。信繁は正室に家臣・堀田興重の娘を迎えていたが離縁し(『真田系譜稿』)、竹林院を迎えたとされているので彼女は継室である。信繁の間には2男4女を産んだとされている[1]慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父の吉継に保護され、戦後に信繁と舅の真田昌幸高野山九度山に流罪にされた際、同行する事を許された[1]。配所で彼女は幸昌らを産んでいる[1]。それから大坂の役までの14年間、不自由ながらも平穏な生活を夫と共に送った[2]

慶長19年(1614年)10月、信繁と幸昌が九度山の配所から脱出して大坂城に入城[2]。竹林院は彼らと別れて他の子供らと紀伊の各所に潜んだ[2][3]。翌年の大坂夏の陣で信繁と兄弟の大谷吉治は戦死[3]。息子の真田幸昌は自害した[3]。戦後、徳川方により敵将の残党・縁者の探索が行なわれた[3]。この際、竹林院は3名ほどの供侍に守られて紀伊伊都郡に潜伏していたが、5月19日に和歌山藩主・浅野長晟の家臣により発見され、5月20日に徳川家康の下に護送された(『浅野家旧記』『駿府記』)。この時竹林院が所持していたのは57枚の黄金、信繁が形見とした脇差の来国俊だったという[3]。この時、黄金はどうなったか不明だが、脇差は家康に没収されて褒美として浅野長晟に与えられている(『駿府記』)。その後、他の子供らと共に釈放された。

慶安2年(1649年)5月に死去した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、62頁
  2. a b c 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、65頁
  3. a b c d e 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社 2000年、66頁

参考文献[編集]

  • 『大谷吉継のすべて』 新人物往来社、2000年 花ヶ前盛明