竹内綱
竹内 綱(たけうち(たけのうち) つな、天保10年12月26日(1840年1月30日) - 大正11年(1922年)1月9日)は、日本の武士で土佐藩士、実業家、政治家。内閣総理大臣を務めた吉田茂は5男、麻生太郎は外曾孫に当たる。
生涯[編集]
土佐藩の幡多郡宿毛村(現在の宿毛市)の出身[1]。武士の生まれで伊賀氏の重臣の家柄だったという[1]。明治8年(1875年)に後藤象二郎の金融商社である蓬莱社に入社し、社長となって高島炭鉱の経営に当たる[1]。ところが明治10年(1877年)に西南戦争に乗じた林有造の挙兵計画に関与(立志社の獄)したとして、禁固1年の刑に処された[1]。出獄すると自由党の結党に参画し、明治23年(1890年)に第1回衆議院議員総選挙に立候補して当選する[1]。明治29年(1896年)に李氏朝鮮の京釜鉄道専務に就任し、明治40年(1907年)に同鉄道が国有化されると東京に戻り、以後は炭鉱や鉱山業に従事し、巨万の富を得たという[1]。
そして長男の竹内明太郎と共に高知工業学校(高知工業高校)を設立し、さらに秋田鉱山専門学校(秋田大学)の創設にも貢献した[1]。
ちなみに綱の5男が戦後の著名な内閣総理大臣である吉田茂であり、茂は吉田健三の養子に出されている[1]。なお、茂が外務省に入省した際、綱は官吏になって賄賂や誘惑に惑わされないようにするため、あるいは誘惑を断ち切るために、茂に名刀・関兼光を贈っている[1]。また著書に「竹内綱自伝」がある[1]。
大正11年(1922年)1月9日に死去。83歳没。
人物像[編集]
竹内は政府の力を借りず、他人の援助によらず、独力で運命を拓すと評され、また「林有造、大江卓と雁行せる土佐の豪傑なり。しかも二氏の落託(落ちぶれるさま)に似ず、大福長者となっておつに澄ましておる。意を政界に得ずして一転財界の人となりしはさすがに抜け目がない」と「財界名士失敗談」で評されている[1]。
また、宿毛市には綱・明太郎父子の顕彰碑がある[1]。