秦宓
秦 宓(しん ふく、または、しん みつ、? - 226年)は、中国の後漢末期から三国時代の蜀の学者・政治家。字は子勅(しちょく)[1][2]。
生涯[編集]
益州広漢郡綿竹の出身[1]。若い頃から才能と学問に優れ、文学や弁論に優れた学者でもあり名声は高かった[1]。劉焉の招聘を受けた際にはこれを辞退したものの、同郷の学者で名声が高かった任安を推薦している[1]。劉焉の子である劉璋の部下の広漢郡太守の夏侯簒や治中従事の王商らからの出仕の誘いも断った。代わりに同郷の彭羕を蜀郡太守の許靖に推薦して書佐に任命させている[1]。
劉備が益州を平定すると夏侯簒に招聘されて師友祭酒・五官掾に任命され、さらに劉備に招聘されて従事祭酒に任命される[1]。221年に劉備が皇帝に即位し、関羽を討った孫権への報復を行なおうとした際には懸命に反対して諫めたが劉備には聞き入れられず、かえって投獄されてしまった[1]。後に釈放されている[1]。
223年の劉備の崩御後は劉禅に仕え、諸葛亮が益州牧に任命されると別駕に任命される[1]。さらに左中郎将・長水校尉に任命された[1]。孫権の使者として張温がやって来た際には百官のほとんどが集まったのに秦宓だけが来なかったので。諸葛亮は秦宓に対して使者を送り呼びに行かせた[1]。張温はやって来た秦宓に対して様々な議論を吹っ掛けたが、秦宓は全て適切な回答をしたため逆に張温が敬服したという[1]。後に大司農に昇進し、226年に死去した[1]。
小説『三国志演義』では、第65回で劉璋の配下として初登場し、劉備を蜀に迎えようとしたときはこれに反対し、劉備の家臣・簡雍が成都に降伏勧告に来たときに取った傲慢な態度に対して一喝した[1]。劉備への諫言は史実通りで、張温を言い負かせるのは酒に酔ってのことが付け加えられている[1]。