彭羕

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彭 羕(ほう よう、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家永年(えいねん)[1]

生涯[編集]

益州広漢郡の出身[1]。身長が8尺(約184センチ)あり、容貌は魁偉で傲慢な性格だったが、同郷の秦宓から尊敬されて当時蜀郡太守だった許靖に推挙され、益州の書佐として劉璋に仕えた[1]。しかし傲慢な性格のため劉璋に讒言する者があり、劉璋によって髪を剃られ首枷をさせられるいわゆる髠鉗の刑に処された上に労役囚となる[1]

劉備の入蜀の際、軍師だった龐統の下を訪ねて才能を認められ、さらに旧知の法正からも推挙されたので劉備の家臣として取り立てられる事になる[1]。劉璋が降伏して劉備が益州の主になると、治中従事に任命される[1]。だが、相変わらずの傲慢な性格がますます傲慢になり、諸葛亮から疎まれて劉備に進言された結果、江陽郡の太守に左遷されてしまう[1]。それに不満を抱いて馬超の下を訪れて「あの老いぼれ(劉備)が惚けて話にならない」と罵った上に、野心の相談を持ちかける[1]。馬超は連座で処分される事を恐れて劉備に上奏し、彭羕は逮捕された[1]。彭羕は獄中で諸葛亮に対して長い書状を書いて弁明するも許されず、結局処刑された[1]。37歳の若さだったという[1]

三国志演義』では第62回から登場し、字は永言(えいげん)と変えられている[1]。劉備の入蜀の際に龐統の下を訪れるがこの時に寝そべるなど傲慢な人物として描かれている[1]。だが、劉璋軍の水攻めを密告するなど功を立てたので劉備の幕僚として迎えられ、益州平定後も重用される[1]220年に親友の孟達関羽に援軍を出さなかったために劉備に恨まれて処罰されそうになったため、彭羕は孟達にそれを知らせようと密書を孟達に送ろうとした[1]。しかしそれを届ける使者が馬超に捕らえられてしまい、馬超は彭羕を調べるために彭羕の家を訪れ、彭羕は疑いもせずに馬超を手厚く歓待する[1]。しかし酒の勢いもあり、その席で益州を攻め取る約束を交わしてしまい、それが謀反の証として馬超から劉備に報告され、彭羕は弁明するも許されず処刑された[1]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q 小出『三国志武将事典』P153

参考文献[編集]