張温 (呉)
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張 温(ちょう おん、193年 - 230年)は、中国の三国時代の呉の武将・政治家。字は恵恕(けいじょ)[1]。父は張允。弟は張祗・張白。姉妹は女子3人(一人は顧承の妻)。
生涯[編集]
揚州呉郡呉県の出身[1]。孫権に仕えて重用され、議郎・選曹尚書・太子太傅と昇進する[1]。224年には輔義中郎将に任命されて、呉の使者として蜀に赴き、蜀の重臣・秦宓と問答をして諸葛亮ら蜀の人々からも大きく称賛された[1]。ところが、張温の名声が高まるにつれて孫権に疎まれるようになり、尚書の曁艶が犯した罪を口実に郷里に追放され、張温は230年に死去した[1]。享年38。
『三国志演義』では第43回の赤壁の戦いの時に駱統と共に諸葛亮に論戦を挑もうとするが、黄蓋に止められている[1]。第86回で蜀へ使者として赴くのも史実通りだが、秦宓との問答に敗れている[1]。