全日本産業別労働組合会議
全日本産業別労働組合会議(ぜんにほんさんぎょうべつろうどうくみあいかいぎ)は、1946年に日本共産党の指導下に結成されたナショナルセンター。略称は産別会議、産別。
概要[編集]
戦前の日本労働組合評議会(評議会)、日本労働組合全国協議会(全協)の流れを汲む。敗戦後、共産党員は各地に工場代表者会議や労働組合協議会(労協)を組織した。1945年12月25日に日本鋼管鶴見造船所労働組合など9組合の呼びかけで神奈川県下21組合の代表70人からなる神奈川県工場代表者会議が組織された[1]。春日正一らが中心となって組織された神奈川県工場代表者会議や伊藤憲一らが中心となって組織された東京南部工場代表者会議などが基礎となり、1946年1月27日に関東地方139組合22万9千人の関東地方労働組合協議会(関東労協)が結成された。春日正一、伊藤憲一、吉田資治、長谷川浩、金子健太らが関東労協結成の中心となった。一方では全国的な産業別労働組合の組織活動が進行していた。1946年2月9日に結成された日本新聞通信放送労働組合が全日本炭鉱労働組合連合会、全日本印刷出版労働組合準備会、関東労協、関東金属産業労働組合協議会、全日本映画従業員同盟、全日本教職員組合に呼びかけ、1946年2月20日に産別会議準備会が結成された。聴濤克巳、小林一之、細谷松太、長谷川浩が産別会議結成提唱に関係した[2]。1946年8月19日に21単産155万9千619人(一般には全木材を加えた163万人)をもって産別会議が結成された。幹事は聴濤克巳(議長、新聞)、土橋一吉(副議長、全逓)、坂口康夫(副議長、国鉄東京)、佐藤泰三(事務局長、電産)、松本慎一(印刷)、津々良渉(全炭)、中原淳吉(電工)、山崎栄一(機器)、鈴木栄一(化学)、津田正(鉄鋼)。文化部長は八木保太郎(映画)、婦人部長は谷口みどり(新聞)、国際部長は藤川義太郎(電産)、事務局次長は細谷松太[3]。同年8月1日に86万人をもって結成された日本社会党系の日本労働組合総同盟(総同盟)と並ぶ二大全国組織として活動した。規約や組織形態はアメリカの産業別労働組合会議(CIO)、綱領は世界労連(WFTU)に範をとった。
ストライキや生産管理闘争を戦術とし、1946年の十月闘争や1947年の二・一ストを指導した。1946年10月に産業復興会議を結成し、1947年12月に総同盟や経済同友会が結成した経済復興会議に参加した。1947年3月10日に総同盟とともに全国労働組合連絡協議会(全労連)を結成したが、1948年6月に総同盟が脱退した。全労連は1949年1月に世界労連に加盟した。二・一ストの挫折後は地域人民闘争・産業防衛闘争、大産業別整理を方針とした。傘下組合では読売争議、京成電鉄争議、東芝争議、日本鋼管鶴見製鉄所争議、三菱美唄炭鉱争議、東宝争議、全逓三月闘争などが闘われた。
二・一ストの挫折後、労働組合内に共産党フラクションによる方針押し付けや組合引き回しを批判する声が高まり、政党の組合支配排除・民主化を目的とした民主化同盟(民同)と呼ばれるグループが相次いで結成された。1948年2月13日に産別会議の一部の幹部・書記(細谷松太、三戸信人、光村甚助、喜田康二、落合英一、大谷徹太郎ら[4])が産別民主化同盟(産別民同)を結成した。1948年11月の産別会議第4回大会で反労働者的だとして民同解散が決議されたため、1949年12月10日に産別民同は全国産業別労働組合連合(新産別)を結成した。1950年7月に産別会議を脱退した民同派の組合、中立組合、総同盟などが17組合377万人の日本労働組合総評議会(総評)を結成した。さらに1949年の行財政整理・企業再建整備に基づく人員整理、1950年6月の朝鮮戦争勃発を契機としたレッドパージで職場の活動家が大量に追放され、産別会議は民同派の分裂と占領軍・政府・経営者による弾圧で組織が大幅に縮小した。1950年5月の執行委員会は産別会議の全労連への解体を決定したが、1950年8月に全労連が団体等規正令によって解散させられたため、産別会議が日本唯一の世界労連加盟組織となった。1951年6月の第6回拡大執行委員会は総評強化の方針を採択した。同時に共産党も総評への結集を主張し、傘下組合の中から産別会議を脱退して総評に加盟する傾向が強まった(総評への「なだれ込み」)。1952年頃から機関活動は事実上、停止状態となった[5]。
1950年6月のレッドパージ前は土建・全建労・印刷・金属・映画・全逓・電産・医協の8単産32万1千200人の勢力を有していたが、1951年12月には印刷・金属・全逓・医協・土建の5単産4万1千380人、1953年4月以降は金属(全日本金属労働組合)・医協(全日本医療従業員組合協議会)の2単産約1万人のみとなった。全日本医療従業員組合協議会(全医協)はレッドパージの影響で休止状態となり[6]、実質的に全医協=東京医協という状態になっていた[7]。1953年4月に東京医協を再結集する形で東京地方医療労働組合協議会(都医協)が結成され[6]、1957年8月に都医協は全医労、全日赤など9組合で日本医療労働組合連絡協議会(日本医労協)を結成した[5]。一方、全日本金属労働組合(全金属)は1957年10月に総評全国金属労働組合との組織統一を決定した。これに伴い、産別会議は1958年2月15日に第8回臨時大会で解散した。
結成時の加盟組織[編集]
- 全逓信従業員組合
- 全日通労働組合
- 日本教育労働組合
- 全日本炭鉱労働組合
- 日本電気産業労働組合協議会
- 全日本鉄鋼産業労働組合
- 全日本港湾労働組合同盟
- 日本新聞通信放送労働組合
- 全日本医療従業員組合協議会
- 全日本印刷出版労働組合
- 日本映画演劇労働組合
- 全国生命保険従業員組合連合会
- 全日本機器労働組合準備会
- 全国化学労働組合準備会
- 全日本進駐軍要員労働組合準備会
- 全国水産食糧労働組合準備会
- 国鉄東京地方労働組合
- 関東電気工業労働組合
- 全関西造船労働組合協議会
- 国際電気通信従業員組合連合会
- 日通自動車工業労働組合
歴代議長[編集]
- 聴濤克巳(新聞) - 1946年8月の結成大会で選出。
- 菅道(機器/金属) - 1947年7月の第2回臨時大会で選出。
- 吉田資治(金属) - 1949年11月の第5回定期大会で選出。
- 市川福平(金属) - 1956年7月の第6回臨時大会で選出。
本部[編集]
出典[編集]
- ↑ 神奈川県企画調査部県史編集室編『神奈川県史 資料編 12(近代・現代 2)本編』神奈川県、1977年、19-20頁
- ↑ 細谷松太「細谷松太氏に聞く-1-産別会議準備会の活動と10月闘争(産別会議研究会ヒアリング)」法政大学社会労働問題研究センター、法政大学大原社会問題研究所編『研究資料月報』327号、法政大学大原社会問題研究所、1986年
- ↑ 細谷松太『細谷松太著作集 2』鼎出版会、1981年、38-39頁
- ↑ 三戸信人「産別民同がめざしたもの(1)三戸信人氏に聞く(PDF)」『大原社会問題研究所雑誌』第489号、1999年8月
- ↑ a b 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、41頁
- ↑ a b 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、11頁
- ↑ 東京地方医療労働組合連合会編『東京医労連30年のあゆみ』あゆみ出版、1980年、35頁
主要参考文献[編集]
- 産別会議史料整理委員会編『産別会議小史』(産別会議残務整理委員会、1958年)
- 金子健太「産別会議の初期の活動――関東労協結成から全労連解散まで」(労働運動史研究会編『労働運動史研究 53号 産別会議――その成立と運動の展開』労働旬報社、1970年)
- 楠精一郎「二・一ゼネストと総同盟の対応」(高崎経済大学編『高崎経済大学論集』第26巻第3号(通巻82号)、1983年)
- 吉田健二「産別会議の成立過程-1-」(法政大学社会労働問題研究センター、法政大学大原社会問題研究所編『研究資料月報』312・313号、法政大学大原社会問題研究所、1984年)