松尾洋

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松尾 洋(まつお ひろし、1911年8月 - 2000年7月12日)は、日本労働運動史研究者。

経歴[編集]

1911年8月、東京生まれ。栃木県の旧制下野中学校卒業[1]。1932年法政大学中退[2]

下野中学校時代に全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌『戦旗』を直接購読し、特高から学校に通報されたことがある。1931年4月に法政大学予科に入学。のち専門部に進学。文学関係のサークルや読書会を経て、日本共産青年同盟(共青)に加入。本部印刷局で活動したが、検挙され、諭旨退学処分となった。1934年9月から江東地域で同人誌『文芸街』に文学論を書いたり、編集・発行に参加したりし、文学運動を継続した。1936年7月のコム・アカデミー事件に連座し、日本共産党の再建に協力したとして治安維持法違反容疑で検挙された。1937年4月思想犯保護観察法を適用されて釈放された。1938年7月召集され、中国武漢方面の戦線に動員された。1940年6月漢口で召集解除となり、現地の銀行に就職。一時期は商工会議所に勤務して経済調査などに従事した[1]

1946年4月に日本に帰国。かつての学生運動・文学運動の仲間で『赤旗』編集部の藤原春雄に職探しの相談をしたところ、日本新聞通信放送労働組合役員、産別会議準備会事務局の小林一之が訪れ、藤原が小林に松尾の就職を依頼したため、1946年6月に産別会議準備会本部事務局に入った。産別会議準備会、産別会議で機関紙活動に専念。1946年8月に産別会議の機関紙『労働戦線』が創刊され、編集発行の名義人となった。1948年8月産別会議を退職。1948年9月日本機関紙連合通信社の設立に参加し、労働記者となった。1956年に退職し、日本労働運動史の研究に従事した[1]労働運動史研究会会員[3][2]。1978年4月に法政大学大原社会問題研究所の嘱託研究員となり、1979年4月に始まった産別会議に関する調査・研究プロジェクトに参加した[4]。2000年7月12日、埼玉県大宮市内の病院で心不全のため死去、88歳[4]

ベストセラーとなった大河内一男との共著『日本労働組合物語(全5巻)』(筑摩書房、1965-1973年)の実際の執筆は松尾が主だった[5]。妻の多賀(たか)は大原社会問題研究所が編集・発行した復刻シリーズ『日本社会運動史料』の大部分の目次や索引を作成した[5]。『日本社会運動史料』の責任者だった二村一夫は『日本労働組合物語』について「あれも多賀さんが、さまざまな形で援助して完成されたものだったに違いありません」と述べている[5]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『日本労働運動史』(日本労働協会[労働通信講座テキスト]、1964年)
  • 『治安維持法――弾圧と抵抗の歴史』(新日本出版社[新日本新書]、1971年)
  • 『治安維持法と特高警察』(教育社[教育社歴史新書]、1979年)

共著[編集]

  • 『日本労働組合物語 明治』(大河内一男共著、筑摩書房、1965年)
  • 『日本労働組合物語 大正』(大河内一男共著、筑摩書房、1965年)
  • 『日本労働組合物語 昭和』(大河内一男共著、筑摩書房、1965年)
  • 『日本労働組合物語 戦後 1』(大河内一男共著、筑摩書房、1969年)
    • 新装版『日本労働組合物語 戦後篇 上』(大河内一男共著、筑摩書房、1987年)
  • 『日本労働組合物語 戦後 2』(大河内一男共著、筑摩書房、1973年)
    • 新装版『日本労働組合物語 戦後篇 下』(大河内一男共著、筑摩書房、1987年)

編著[編集]

  • 『松尾多賀をおくる』(編、松尾洋、1995年)

出典[編集]

  1. a b c 松尾洋、佐藤茂久次「証言:日本の社会運動 『労働戦線』の創刊と編集事情(1)松尾洋・佐藤茂久次氏に聞く〔含 略歴〕PDF」『大原社会問題研究所雑誌』No.493、1999年12月
  2. a b 松尾洋『治安維持法と特高警察』教育社、1979年
  3. 松尾洋『治安維持法――弾圧と抵抗の歴史』新日本新書、1971年
  4. a b 松尾洋、佐藤茂久次「証言:日本の社会運動 『労働戦線』の創刊と編集事情(2)松尾洋・佐藤茂久次氏に聞くPDF」『大原社会問題研究所雑誌』No.515、2001年10月
  5. a b c 二村一夫《日本社会運動史料》をささえた人 ─ 松尾多賀さんのこと