生熊長勝
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生熊 長勝(いくま ながかつ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏の家臣。丹波や美濃に2万石を領した大名である[1]。
略歴[編集]
長勝については父親や羽柴秀吉に仕える経緯などについては不詳である。秀吉には少なくとも天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い以前までには仕えていたようで、当時の地位は鉄砲組頭だった。天正15年(1587年)に丹波多紀郡(現在の兵庫県丹波篠山市)に知行を与えられた。天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍[1]。
文禄の役では秀吉に従って肥前名護屋城に在陣。文禄4年(1595年)に秀吉が草津温泉で湯治をした際に警護を担当している。慶長2年(1597年)には丹波・美濃において2万石を与えられて大名となった[1]。
秀吉没後は秀頼に仕え、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に属し、石川貞清の尾張犬山城を救援するが、西軍が壊滅すると改易。長勝のその後の行方は定かではないが、子孫は水戸藩に仕えたといわれる[1]。
なお、Wikipediaでは自害したとあるが、そのような記録はない。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]