甘利信忠
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甘利 信忠(あまり のぶただ、天文3年(1534年)[1] - ?)は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣。武田二十四将の一人に数えられる。
生涯[編集]
活躍[編集]
父は武田信玄初期の覇業を支えた甘利虎泰で嫡子[1]。仮名は藤三[1]。官途は左衛門尉[1]。諱は最初は昌忠(まさただ)で(『諸州古文書』)、永禄7年(1564年)から永禄9年(1566年)の間に信忠と改名したと見られている[1]。正室は金丸虎義の娘[1]。子に藤蔵、信恒[1]、信頼。
天文17年(1548年)2月の上田原の戦いで父が戦死したため、家督と父の職だった「両職」を継承した[1]。譜代家老衆で同心衆150騎持の侍大将となる[1]。父と同じ戦巧者で数々の合戦で先衆を務めた[1]。永禄4年(1561年)からの西上野経略では主導的な役割を果たし、前線拠点の構築や戦後処理などを務め、さらに上野国衆や関東諸領主の取次を務めた[1]。竜朱印状の奏者も務めており、西上野関係を中心に10点見られる[1]。
没年に関して[編集]
信忠はこのようにかなりの名将であるが、何故か没年は明らかではない。『甲陽軍鑑』では永禄7年(1564年)の死去とされているが、『藤巻文書』では永禄10年(1567年)8月までの生存が確認されているためこれは誤りである。しかしその後の記録が無いため、永禄10年頃に死去したものと見られている[1]。
家督は弟の信康が継いだ。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1