武田信継

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武田 信継(たけだ のぶつぐ、天正10年4月8日1582年4月30日) - 明暦元年12月25日1656年1月21日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての甲斐武田氏の一族。法名が本光信継庵主とあるため、実名は信継であろうか。武田信玄の孫に当たる。

略歴[編集]

父は武田勝頼で末子と思われる。父の勝頼は生まれる前の天正10年3月11日1582年4月3日)に織田信長徳川家康連合軍の攻撃によって長兄の信勝と共に天目山自殺している。信継の母親であるとされる甲斐高畑(現在の甲府市)の女性は勝頼に従って新府城から落ち延びており、このことは『信長公記』の「そば上臈高畠のおあひ」という記述からも確認できる。恐らくは落ち延びる途上で身重の彼女は勝頼と別れて、勝頼没後に信継を生んだのではないかと推測される。

信継は幼名は不明で、武蔵足立(現在の志木市)に落ち延びた後、諸国を流浪したという。そして宮原主膳の取り成しで、武田家と縁の深い甲斐恵林寺に入ったという。宮原主膳に関しては勝頼の姉が嫁いだ宮原義久の一族と思われ、縁戚関係によるものと思われる。江戸幕府にはその存在を隠されていたが、徳川家綱の時代に発生した由井正雪の乱の頃、つまり慶安4年(1651年)7月頃にその存在が報告されたという。

明暦元年(1655年)12月25日、恵林寺において死去した。74歳没。勝頼の子女の中では長命だった。