松浦久信 (伊勢国井生城主)
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松浦 久信/秀任 まつうら ひさのぶ/ひでとう | |||||||||||||||||||||
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松浦 久信/秀任(まつうら ひさのぶ/ひでとう)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊臣氏の家臣。伊勢井生城主で1万1000石を領した大名である[1]。
略歴[編集]
和泉岸和田城主の松浦氏の一族とされるが、系譜に関しては不詳。羽柴秀吉の弓頭、あるいは鉄砲頭として仕えた。天正20年(1592年)の文禄の役では秀吉の馬廻として肥前名護屋城に在陣する。文禄2年(1593年)閏9月に1000石の知行を与えられ、文禄3年(1594年)春からの伏見城普請にも参加する。秀吉に寵愛されたとされ、大坂城西の丸で能を演じることを許されたり、諱に秀吉の偏諱を与えられて秀任と改名していることが確認されている。また、秀吉が死ぬ少し前に伊勢井生に1万石を加増されて合計1万1000石の大名に昇格し、秀吉が死去すると遺品である国宗の刀を与えられている[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには西軍に属し、伏見城の戦いに参加。その後、伊勢安濃津城攻めに参加し、さらに近江大津城攻めにも参加する。秀任は武勇に優れて力に強く、鉄棒を振るって大津城における京極高次の兵士たちを次々と倒し、大津城の一の城戸を打ち破って二の城戸を破ろうとしたが、京極方の兵士に包囲されて逆襲されて戦死した[1]。
死後、所領は没収されて改易となった。しかし、同じく大津城の戦いに参加していた立花宗茂が秀任の武勇を買っていたので、その遺児を引き取って家臣に加えたといわれている[2]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]