旧徳島城表御殿庭園
旧徳島城表御殿庭園(きゅうとくしまじょうおもてごでんていえん)とは、徳島県徳島市徳島城内の徳島中央公園内にある庭園である。
概要[編集]
徳島城の遺構で、市民に千秋閣庭園として親しまれている蜂須賀氏の藩主居城の庭である。慶長20年(1615年)に藩主の蜂須賀至鎮が大坂の陣の軍功により淡路国1国およそ8万石余りを加増された時に、それを記念して築造された。
庭園は枯山水と池泉回遊式を巧みに組み合わせ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての城郭庭園としては代表的な庭園で、日本の国の名勝に指定されている。江戸時代には観音堂・御祀堂・御客風呂屋・弓射場などの建築物が存在したが、明治8年(1875年)に取り壊された。さらに昭和20年(1945年)7月の太平洋戦争末期における空襲で千秋閣と樹木は焼失した。だが、阿波国特産の青石を使った豪華な石組みは残り、名園の面影を現在に伝えている。雨に濡れた青石は格別に美しく見える。また、枯山水にかかる途中から折れた巨大な青石は毒を盛られて憤激した藩主・蜂須賀至鎮が踏み割ったと伝えられ、義伝公踏み割石として現在に伝わる。なお昭和16年(1941年)12月13日、名勝に指定されている。
義伝公踏み割石とは[編集]
義伝公(ぎでんこう)とは蜂須賀至鎮の法号である。彼の正室は徳川家康の養女である氏姫で、至鎮に叛意があるから殺害するように徳川秀忠から密命を受けた氏姫が徳命村(藍住町)の千光寺で茶に毒を盛って至鎮を殺そうとした。至鎮はその茶を飲み、徳島城に帰城してから全てを悟って氏姫に裏切られた事に憤激し、庭に転がり出て石橋の上で地団駄を踏みながら絶命したという。そのため厚さ90センチもある石橋が折れたという。
ただし氏姫が至鎮を殺害したというのは極めて信憑性が乏しく、至鎮が早世したことから派生した作り話とされている。ただこの伝説から大正12年(1923年)に歌舞伎の『寛永異聞』が著された。