日野資名
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日野 資名(ひの すけな、弘安9年(1286年) - 暦応元年/延元3年(1338年))は、鎌倉時代末期から南北朝時代前期にかけての公家。父は権大納言の日野俊光[1]。母は藤原公寛の娘・藤原寛子[1]。日野資朝の長兄である。他の弟に柳原資明、賢俊。子に西園寺公宗に嫁いだ日野名子、大津山資基(8男)。
生涯[編集]
正和4年(1315年)に参議となる[1]。文保元年(1317年)に権中納言となり、元徳2年(1330年)に正二位となる[1]。元徳3年/元弘元年(1331年)に鎌倉幕府が後醍醐天皇を廃して光厳天皇を擁立する際、後醍醐天皇からの神器の伝授に関与し、これより光厳天皇の寵愛を受け、翌年に権大納言に任命された[1]。
正慶2年/元弘3年(1333年)に足利尊氏の攻撃により六波羅探題が陥落した際、北条仲時と共に光厳天皇を奉じて京都から脱出するが、逃走中に佐々木道誉に阻まれて近江番場で仲時は自殺し、資名は出家した[1]。
建武2年(1335年)に足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、後醍醐天皇に対抗する天皇を擁立しようとする尊氏の意を受けて光厳上皇の院宣を取り次ぐのに貢献した[1]。
暦応3年/延元3年(1338年)に死去[1]。享年53。