廖立
廖 立(りょう りつ、または、りゅう りつ、生没年不詳)は、中国の後漢末期から三国時代にかけての蜀の政治家。字は公淵(こうえん)[1][2]。
生涯[編集]
荊州武陵郡臨沅県の出身[1]。劉備が荊州牧に就任した際に招聘されて従事に任命される。30歳になる前に荊州南部の長沙郡太守に任命された[1]。諸葛亮は荊州にいた際に同盟者の孫権の使者に対して廖立のことを龐統と並ぶ逸材と評した。215年に孫権が呂蒙に命じて荊州南部3郡を攻撃させた際、廖立は脱出して蜀の成都に逃げ帰ったが、劉備から信任を得ていたので罪には問われず、巴中郡太守に任命された[1]。219年に劉備が漢中王に就任すると侍中に任命され、223年に劉禅が即位すると長水校尉に任命される[1]。
ところが、廖立は自分の才能や名声が諸葛亮に次ぐと自負した傲慢な一面があり、そのため諸葛亮は廖立を李厳の下である閑職に追いやった[1]。ところがここでも蒋琬や李邵ら丞相掾の人事に対する不安を述べたり、他の文官を誹謗したり、劉備や関羽の戦略を批判したり、朝政を非難したりした[2]。それが諸葛亮に知られると、諸葛亮は劉禅に廖立を死刑にするよう上奏したが、劉禅は死刑にすることを忍びないとして詔勅を出して庶民に落として汶山郡へ流罪とした[1]。廖立は妻子とともにそこで農耕をしながら生計を立てながらも諸葛亮を信頼して復帰に望みを託していたが、234年に諸葛亮が陣没した訃報を知ると自分が蛮民となってしまうだろうと言って大いに嘆いたという[1]。
後に監軍の姜維が汶山郡を通過しようとした際に廖立と出会い、意気や言論が衰えていないことを賞賛したという[1]。廖立は汶山郡で死去し、妻子だけが蜀中央部に戻ることを許された[1]。
『三国志演義』では史実通り罪により庶民とされている。第104回で諸葛亮の死去を知り、自分を復帰させてくれる理解者がいなくなったと嘆いている[1]。