工藤昌祐
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工藤 昌祐(くどう まさすけ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田家の家臣。後に徳川家康の家臣となる。受領名は長門守[1]。
生涯[編集]
父は工藤虎豊。実弟に武田信玄の下で武田二十四将、武田四名臣として重きをなした内藤昌豊がいる[1]。子に祐久。
工藤氏は甲斐武田氏の譜代重臣の家柄であるが[1]、昌祐は弟よりは重用されなかったようである。史料上の初見は天正2年(1574年)に弟が城代を務める上野箕輪城に在城していたことである[1]。弟は翌年の長篠の戦いで戦死しているため、その後は昌祐が箕輪城を守っていたようで天正5年(1577年)7月まで箕輪に在城していたことが確認されている[1]。天正9年(1581年)からは武田勝頼の奉行衆として3月に甥の内藤昌月と連署して龍朱印状を発行している[1]。武田家滅亡後は徳川家康に仕え、旧武田家臣として甲斐統治の4奉行を天正17年(1589年)まで務めている[1]。家康の時代に名を玄随斎喜盛と改めた[1]。