岩井昌能
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岩井 昌能(いわい まさよし、? - 天正12年8月14日[1](1584年9月18))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の家臣、後に越後上杉家の家臣。子に信能。
生涯[編集]
諱は満長ともいわれる。岩井民部大輔の子で、岩井満高の弟。信濃国高井郡岩井郷を本拠とする国衆[1]。
武田信玄に仕えていたが、永禄6年(1563年)8月に父や兄と共に越後国に入り、上杉輝虎に仕えた。上杉謙信の時代には斎藤朝信と並ぶ重臣となっており、謙信からは父と共に重用されたようである[1][2]。
天正6年(1578年)3月に謙信が急死し、上杉家中で御館の乱が勃発すると、昌能は上杉景勝を支持した。この内乱で景勝は武田勝頼と和睦・甲越同盟を結び、結果的に北信の大半が武田領となったため、昌能は勝頼に仕えることになった。
天正10年(1582年)2月から織田信長による武田征伐が開始されると、武田家に属して禰津常安と景勝の間を仲介したりしている。また、息子の信能は御館の乱の後も上杉家に仕え続けており、父は武田家、息子は上杉家で分かれていたようである。武田家滅亡後の4月1日に息子の信能が昌能の上杉家帰参に乗り出すが、失敗している。しかし、本能寺の変後の6月15日に上杉家に帰参した。天正壬午の乱では上杉家に服属した北信国衆を指揮下に置き、飯山城代を務めている[2]。
以後も各地を転戦しているが、天正12年(1584年)8月14日に死去した[3]。子の信能が跡を継いだ。