山本懸蔵
山本 懸蔵(やまもと けんぞう、1895年(明治28年)2月20日 - 1939年(昭和14年)3月10日)は、大正時代から昭和時代にかけての労働運動家・日本共産党の指導者である。
略歴[編集]
茨城県鹿島郡矢田部村(現在の波崎町)の農民であった山本幸次郎・山本あきの次男として生まれる。小学校を卒業して上京し、鍛冶工場の徒弟となり、石川砲兵工廠などを経て、大正4年(1915年)に月島の日本機械工場の研磨工となった。この間に労働運動に感化されたといわれ、戦闘的な労働者として成長し、大正7年(1918年)の米騒動の際に日比谷公園で演説し、米屋を襲撃するのを扇動したとされ、その罪により大正8年(1919年)7月に控訴院で懲役4か月の判決を受けた。同年末、日立鉱山争議に総同盟より派遣されて警官と衝突し、この罪により大正10年(1921年)9月に懲役2か月の判決を受けた。
大正11年(1922年)1月、鉄工組合に属し、2月に総同盟関東労働同盟会常任委員となり、日本共産党に入党する。11月から大正12年(1923年)1月にかけ、プロフィンテルン第2回大会に日本代表として密かに出国した。そして日本に帰国すると、革命的左翼結成に尽力する。同年、第1次共産党事件が起きるとソ連に逃亡し、大正13年(1924年)にソ連の地で関まつと結婚した。やがて日本に帰国し、渡辺政之輔らと総同盟内の左派を形成し、10月の総同盟関東労働同盟大会から中途退場して分裂の原因を作った。大正14年(1925年)5月、日本労働組合評議会を結成し、執行委員となる。
大正15年(1926年)7月、第1次共産党事件で禁固8か月の判決を受ける。昭和2年(1927年)5月、漢口での第1回汎太平洋労働組合会議に日本代表の1人として出席し、7月に「27年テーゼ」発表に伴い、コミンテルンの指名で日本共産党中央委員に就任した。昭和3年(1928年)の第1回普通選挙に労農党から立候補したが落選する。4月に党からプロフィンテルンに派遣され、7月に同執行委員となり、コミンテルン第6回大会にも出席し、以後はソ連で生活を送った。
ソ連ではコミンテルンやプロフィンテルンの大会、執行委員会にたびたび出席したり、片山潜や野坂参三らと「32年テーゼ」作成に参加して共同署名の論文を「インプレコール」や「赤旗」に発表した。昭和11年(1936年)2月に野坂と連名で「日本の共産主義者への手紙」で名高い。他に「太平洋労働者」などに論文を発表したりもしている。
ところが、昭和12年(1937年)11月2日に野坂によってスパイ容疑によりソ連秘密警察に密告され、モスクワ市内で逮捕される。そして裁判にかけられ国家反逆罪遂行容疑で、ソ連最高裁判所軍事法廷で銃殺刑の判決を受け、昭和14年(1939年)3月10日に処刑された。45歳没。
昭和31年(1956年)5月23日、ソ連最高裁判所軍事法廷は山本の名誉回復を決議した。また、山本をスパイ容疑で密告した野坂は、ソ連崩壊後の平成4年(1992年)に秘密文書が公開されたため、野坂が山本を密告したこと、ソ連のスパイを務めていたことなどが表面化し、日本共産党名誉議長を解任された上で除名され、失意のうちにその翌年に死んでいる。
和田春樹の研究(『歴史としての野坂参三』平凡社、1996年)によれば、野坂が山本を密告したというのは間違いで、むしろ野坂は山本を助けようとしていたという[1][2]。
著作[編集]
- 『国領五一郎・山本懸蔵著作集』 日本共産党中央委員会出版部、1963年。
- 『山本懸蔵集』新日本出版社[戦前日本共産党幹部著作集]、1986年、改訂版1992年。解説は関幸夫。
出典[編集]
- ↑ 富田武「戦後日本共産党史の見直しを」季刊現代の理論、2015年7月25日
- ↑ 中北浩爾『日本共産党』中公新書、2022年