小野田又蔵
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小野田 又蔵(おのだ またぞう、1855年2月8日 - 1939年)は、三河国西加茂郡明知村(現在の愛知県みよし市)出身の棟梁(堂宮大工)。
経歴[編集]
安政2年(1855年)2月8日、三河国西加茂郡明知村(後の西加茂郡三好町、現在の愛知県みよし市)に生まれた[1]。なお、同年には同じく三好村で活動した堂宮大工の加藤米次郎も生まれている。父親は小野田菊蔵であり、又蔵は二男だった[1]。29歳だった1883年(明治16年)に小野田小吉家の婿養子となり、1885年(明治18年)に小野田小吉の娘せつと入籍した[1]。7男2女を儲けた[1]。
1884年(明治17年)には碧海郡竹村(現在の豊田市住吉町)の西雲寺の鐘楼堂を手掛け、三好村以外における初仕事となった[1]。1895年(明治28年)には碧海郡知立町(現在の知立市)の萬福寺本堂を手掛け、萬福寺は小野田の代表作とされている[1]。西加茂郡高橋村(現在の豊田市寺部町)の髄応院鐘楼門は小野田の名誉作とされ、一線を退いて弟子の育成に注力する契機となった[1]。1891年(明治24年)から1911年(明治44年)頃までに、今日のみよし市・豊田市・刈谷市・知立市・安城市・岡崎市・名古屋市・豊明市・稲沢市・瀬戸市・東郷町・日進市などに約60作品を残している[1]。
小野田又蔵氏頌徳碑[編集]
1909年(明治42年)には平針街道沿いに「小野田又蔵氏頌徳碑」が建立された。1939年(昭和14年)に85歳で死去した。2015年(平成27年)には知立市の萬福寺本堂が登録有形文化財に登録された。
みよし市にある顕彰碑[編集]
- 大澤浅次郎(教員) - みよし市立北部小学校
- 大澤雄岱(教員) - みよし市立南部小学校
- 加藤直三郎(村長) - みよし市立南部小学校
- 原田久豊(村長) - 満福寺
- 加藤米次郎(棟梁) - 医王寺
- 柴田房吉(村長) - みよし市役所
- 小野田又蔵(棟梁) - みよし市明知字小池下
- 大鹿由太郎(愛知県会議員) - 百々池堤防脇
- 熊崎惣二郎(実業家) - 三好下公民館
- 大澤界雄(軍人) - 大覚寺
- 大正天皇 - みよし市三好字大慈山
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 三好町立歴史民俗資料館『堂宮大工 小野田又蔵の世界』三好町立歴史民俗資料館、1991年
- 三好町立歴史民俗資料館『みよしの人物 みよしを彩った人々』三好町立歴史民俗資料館、2008年