小浜景隆
ナビゲーションに移動
検索に移動
小浜 景隆(おはま かげたか、天文9年(1540年)[1] - 慶長2年9月7日[1](1597年10月17日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての海賊・武将。子に光隆。甲斐武田家の家臣。後に徳川家の家臣。
生涯[編集]
志摩国(現・鳥羽市)小浜出身の海賊で、元亀2年(1571年)11月に武田信玄が水軍強化のため土屋貞綱を通じて伊勢水軍に勧誘の手を伸ばした際に応じて武田領となっていた駿河に入国し、清水湊を中心に駿河・遠江沿岸で水軍を展開した[1]。信玄や勝頼から厚遇され、前者からは335貫900文余、後者からは3000貫文の知行を与えられている[1]。天正8年(1580年)から北条水軍相手に戦い、伊豆久龍津などの沿岸部の村々を攻撃して撃破した[1]。
天正10年(1582年)に武田家が滅亡すると徳川家に仕えた[1]。徳川家康から相模三崎を与えられ、同地で58歳で死去した[1]。法名は浄見[1]。