郡内合戦

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郡内合戦(ぐんないかっせん)とは、永正5年(1508年)12月から永正7年(1510年)春にかけて行なわれた武田信虎軍と小山田弥太郎信有父子軍による合戦である。弥太郎は永正5年12月に敗死したが、遺児の信有が跡を継いで抵抗したため、合戦が長期化した。最終的には信虎軍の猛攻により信有が降伏に近い形で和睦し、信虎軍の勝利で終結した。戦場は現在の山梨県富士吉田市一帯である。

経歴[編集]

永正5年(1508年)10月に行なわれた勝山合戦油川信恵一党が敗死すると、信恵と縁戚関係にあり勝山合戦でも信恵に味方した小山田弥太郎は、報復のために信恵一党の残党を味方に引き入れて12月5日に信虎の本拠である国中(山梨郡八代郡)を攻めた。しかし信虎の反撃を受け、12月5日の合戦で弥太郎は敗死した(『勝山記』)。またこの敗戦で弥太郎に味方していた工藤氏小山田平三らは伊豆韮山城北条早雲を頼って落ち延びて早雲の家臣となる[1][2]

弥太郎の死で、小山田家は息子の信有が継いでなおも信虎に抵抗する。信虎は永正6年(1509年)秋に小山田家の本拠である郡内(現在の南都留郡)に侵攻し、河口宿を放火した。さらに12月には小山田方の検断殿や吉田の要書記らなど要人を討ち取った。追い詰められた信有は永正7年(1510年)春に信虎に降伏し、その条件として信虎の妹の小山田夫人が信有に嫁ぐことで和睦が成立した(『勝山記』)。

脚注[編集]

  1. 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.52
  2. 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.204

参考文献[編集]

  • 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6