安井算哲
安井 算哲(やすい さんてつ、天正18年(1590年) – 慶安5年1月9日(1652年2月18日))は、江戸時代の囲碁棋士。江戸時代の囲碁の家元四家の一つ安井家の始祖である。実子に渋川春海がいる。
経歴[編集]
1590年(天正18年)、安井忠右衛門宗順の次男として生まれる。幼少より碁技に優れていた。11歳の時、榊原式部大輔康政が取り持って、伏見城に徳川家康にお目見えし、20石6人扶持[1]を与えられた。駿府城で12人扶持となった[2]。
1608年(慶長13年)、19歳で剃髪して算哲を名乗り、本因坊算砂、林利玄、中村道硯、林門入因碩らとともに碁打衆の一員となる。8歳年長の道硯の好敵手として多くの対局をした。
1640年(寛永17年)頃、江戸幕府から算砂、道硯の後継となる碁打衆の取りまとめ役(後の碁所)の詮議「碁所詮議」が行われた。幕府はすでに第3代征夷大将軍・徳川家光の代であり、行政機構も固まり、諸制度が整備され始めたために碁打衆も組織化される機運が高まった。本因坊算悦、安井算哲、井上因碩(古因碩、玄覚。世系書き換え後は二世)らが召し出された。算哲は進んで碁所に就くことを望んだが一蹴された。「御老中そのほか御役人中御列座にて、右の段お尋ねされ候。算哲申し上げ候は、私儀、只今歳罷り寄り、碁為りかね候へども年久しく功を積み候者に御座候間、碁所仰せ付けられ下され候ようにと申し上げ候。時に御裁許の御衆、仰せられ候は、此の度の御詮議は碁強き者、碁所仰せ付けらるべしとの事これあり候。其の方、只今、碁為りかね候とこれある上は御詮議に及ばず候、、、」[3]。
実子が無かったため、門下で部屋住の安井算知を養子として認められ家督を譲った。その後、安井算知は新らたに20石10人扶持を与えられる。その後、算哲に実子が生まれ、保井算哲と称していたが、天文暦学を岡野井玄貞・松田順承に学び、初代幕府天文方に250石をもって任ぜられ、碁方は辞職した。1702年(元禄15年)に渋川に改姓した。